今日の「天職人」は、岐阜市加野の「岐阜提灯摺込(すりこみ)師」。
病の床を抜け出して 長良の鵜飼訪ねたい 母の小さな願いさえ 叶うことなく四季は逝く 松明燈す庭先で 茄子の馬が母を乗せ 違(たご)うことなく連れ来(きた)る 初の迎え火岐阜提灯
岐阜市加野の岐阜提灯刷込師の、稲見繁武さんを訪ねた。

「微妙な色が一つずつ入るたび、長良の流れと木々の色合いも深まる。その何とも言えん途中経過が好きやったんやて」。繁武さんは、実直そうにはにかんだ。
繁武さんは中学を上がると、直ぐに鉄工所に入社。しかしわずか一年後に、鉄工所は倒産。知人の勧めもあり、提灯摺込師の元で修業を始めた。
「明けても暮れても、顔料を乳鉢で磨りからかして、型紙切りを覚えるまでに五~六年はかかったもんやて」。八~九色の顔料を親方が調合。「色の作り方をこそっと盗み見るんやて」。一端の摺込師として認められるまでには七~八年が費やされた。

やっと腕に覚えが付き始めた昭和三十五(1960)年、三つ年上の愛妻、緑さんが嫁いだ。「友達の紹介やったけど、あんまり覚えないんやて」。繁武さんは照れ臭そうに、妻に助け舟を求めた。「どんな仕事しとるかもわからんのに、お父さんの誠実さに惹かれたんやて。だからか学者みたいに気難しい父も『この人なら間違いない』って、太鼓判押したほどやで」。妻が懐かし気に夫を見つめた。
市内の安アパートで、新婚生活が始まった。「六年後に独立するで」と、緑さんへの宣言がプロポーズ代わり。緑さんは洋裁の注文をこなし、安月給の夫を支えながら子育てに追われた。
昭和四十二(1967)年、子供の入学に合わせ、あの日の約束を見事に果たして独立。「まああの頃は、忙して忙して。朝は八時から夜中まで、働き詰めやったって」。源氏絵の雅やかな図柄が摺込まれた一枚の作品を広げた。「これは百二十手かかっとるんやて」。摺込師は、絵師が色付けた絵を見ながら、色の数だけ百二十枚の伊勢型紙を彫り込む。この細かな作業に丸四日。見本付けに二日。完成までに一週間が、惜しみなく注ぎ込まれる。「やっぱり印刷では出せんのやて。薄い和紙に、何度も重ねて摺込むんだで、色が浮き立って来るんや」。

上品で控えめな色彩が、岐阜の美しい四季の絵柄を一層引き立てる。しかし売れに売れた時代は、バブルの終焉と同時に幕引きを迎えた。「毎日コツコツと。一生こんだけの仕事やて。ようやって来たねぇ」。繁武さんは、苦笑いを妻に向けた。「真面目一筋で、私にはもったいない位の人やて」。妻が夫を見やった。
金の草鞋で手に入れた、姉さん女房の言葉は、ひたむきに生き抜いた老職人への、何よりの誉れとなった。
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おはようございます。
・岐阜提灯摺込(すりこみ)師のお話ですね。
・岐阜市加納に岐阜提灯摺込(すりこみ)師さんが、見えるのですね。知りませんでした。
ブログを、見て勉強になりました。
・昔よりも今の方が岐阜提灯の職人が少ないでしょうね。
・私は、実際に岐阜提灯を、お店等で見た事が有りません。
・お盆に飾る提灯とは違うのでしょうね。
コツコツと 黙々と 本当に細かなお仕事。真面目で誠実な方だからこそ出来るんでしょうね⁈
岐阜提灯 一度だけ見た事があります。
とにかく線が細くて でも品があって 透明感があって…見入ってしまいました。
一人暮らしなら 部屋に飾るんだけどなぁ〜(笑)
それにしても雅やかな提灯ですよねぇ。
我が家も お盆用の提灯は岐阜提灯です
鵜飼船や桔梗の花が描かれていますよ~
保存しておく箱には 岐阜提灯と大きく買いてあります (^-^ゞ
実家の時は お仏壇の左右に 立てて置くタイプ だったので 引っかけて 倒してしまい 慌てて立て直しましたが、 何故だか ばれていました !Σ(×_×;)!
どんな絵が正面なのか? なんて あの頃は わからなかった から 、、、
今は 吊り下げタイプに しました ☆
さすが岐阜人の誉れですねぇ!
でも、ひっくり返した提灯の灯が、昔と違ってロウソクの火じゃなかったのが、何よりでしたねぇ。