「昭和Nostalgia」(460)

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飛騨びと言の葉綴り~古川町・谷口充希子さん – 飛騨市公式ウェブサイト


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子どもの頃を過ごした町内にも、こんな火の見櫓がありました。

もう最近街中では、とんと見かけなくなってしまったものです。

二階建て家屋の2.5倍くらい、5階建てビルに相当する高さだったんでしょうか?

仮に今でも火の見櫓があったにせよ、高層ビルや高層マンションに取り囲まれちゃあ、その役割も果たせず仕舞いかも知れません。

子どもの頃は、火の見櫓の下から、見張り台部分を仰ぎ見たものです。

腕白坊主の中には、見張り台まで登ろうとする、血気盛んな輩もおりましたですねぇ。

高所恐怖症のヘタレなぼくなんて、火の見櫓の下から見張り台を眺めるだけで、既に足がすくんでしまうほどでした。

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江戸時代は、時代劇で描かれるように、町火消しが中心で、町ごとに番屋が設置され、番太郎なる番人が常駐し、24時間態勢で警戒にあったとか。

この番太郎が町全体を見渡せるよう、番屋に櫓を組み、高いところに見張台を置いたことから、火の見櫓と呼ばれたんだそうです。

まあ俗に花のお江戸は、「火事と喧嘩は江戸の花」なんて言われるほど、しょっちゅう火事や喧嘩が頻発していたって事なんでしょうねぇ。

そして火の見櫓の上部には、半鐘が設置され、火災を発見した番太郎が警鐘を鳴らし、火消を招集すると同時に、町人に火災の発生を知らせる役割も担っていたんだとか。

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江戸を皮切りに火消体制が整備され、火の見櫓は昭和の初期になると、全国ほぼ全ての地域に広がったそうです。

その名残か、各地には消防団ってぇのが、今でも残って活動されておりますものねぇ。

ぼくの通う床屋のご主人も、消防団員として、地域の活動に力を入れられております。

そうした地域の方々のご尽力があって、火災から地域を日々守ってくださっているんですねぇ。

ご苦労様でございます!


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投稿者: okadaminoru

1957年名古屋市生まれ。名古屋在住。 岐阜県飛騨市観光プロモーション大使、しがない物書き、時代遅れのシンガーソングライター。趣味は、冷蔵庫の残り物で編み出す、究極のエコ「残り物クッキング」。 <著書> 「カカポのてがみ(毎日新聞社刊)」「百人の天職一芸(風媒社刊)」「東海の天職一芸(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸2(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸3(ゆいぽおと刊)」「長良川鉄道ゆるり旅(ゆいぽおと刊)」

「「昭和Nostalgia」(460)」への2件のフィードバック

  1. 多治見はまだ結構残っています。火の見櫓。ワタクシが住んでいる地区で一番高い構造物です。

    1. 地域のランドマークとしての機能もありましたよねぇ。
      でも見張り台で半鐘が打ち鳴らされたら、消防車のサイレン以上に驚いちゃいそうでなりません!

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