昭和の半ば。
欧米人は日本の住宅事情を、「ウサギ小屋だ」と揶揄。
だが当時の日本人は、どんなに蔑まれようと、見事に高度成長を成し遂げた。
我が家の両親もその時代を生き、社会の底を這うようにぼくを育て上げた。
恐らく父母の唯一の愉しみは、家族で寄り添う一時だったろう。
6畳一間のアパート。

台所も炊事場も便所も共同。

風呂は銭湯通い。
折り畳み式の丸い卓袱台を囲み、倹しい食事を分け合った。
夜も更ければ、卓袱台を折り畳み、煎餅布団を並べた寝床へと早変わり。
それが昭和半ばの高度成長を影で支えた、「魔法の茶の間」である。

寝食も苦楽も綯い交ぜに、それでも明日を信じて夢見た家族の団欒。
昭和も30年代に入ると、三種の神器が登場。
やがて我が家にも、月賦で手に入れた白黒テレビがやって来た。
「じゃあ、スイッチ入れますで」。
電気屋のオヤジの声に、茶の間で正座しブラウン管に目を凝らす。
ザザーッという音と共に走査線が走り、ゆっくりと映像が浮かび上がる。
ついに母が感極まり柏手を打った。
白黒テレビの放送から58年。
カラー化からデジタルの世へ。
画像の鮮明さには、まったくもって目を瞠る。
だが豊かさの影で、失ったものも数多い。
茶の間に卓袱台、そして何よりテレビを取り巻く家族の姿だ。
果たしてそれは喜ぶべきか?
茶の間が家族の居場所だった、そんな時代を生きたぼくには到底分からぬ。
今よりずっと貧しかったあの時代。

だが茶の間にはいつも、家族の笑い声が溢れ返っていた。
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ハナ垂れっちの頃
勿論!昭和30年代
父親が仕事から帰って来るくると、父親の自転車の後ろに乗って
銭湯へ行くのが日課だった。
テレビのチャンネル権は父親で、プロ野球ナイター、プロレス
見たい番組があっても見られない、じっと我慢していたな~ぁ⤴
そうですよねぇ。
なんだかんだと言ったって、お父ちゃんを家のお母ちゃんも立ててましたもの。
家族が多かったのでままならない事もたくさんあった。今、テレビのリモコンは独り占め。トイレも順番を待たなくてもいい。そんな生活が当たり前になってしまうと、あの頃は懐かしいけど、う〜ン、戻りたいとは・・・。
そうかぁ!
ぼくは一人っ子だったから、トイレの順番待ちとかの辛い想い出はありませんでしたねぇ。
それもありがたかったり、ちょっと寂しかったり!
そういえば、ヤンスタでオカダさんが時々、子供の頃の話をされていましたね!
ウチも昔は古い家で、雨漏りしてました。洗面器やなんかを置いてしのいでましたねえ。
あの雨だれのアマダレノ音って、結構好きでしたねぇ・
狭いながらも楽しい我が家
懐かしくて愛おしい気がします。
小学6年生まで長屋のような所に住んでて 鍵っ子だった私は 時々鍵を忘れて学校に行ってしまう事があって 今みたいに携帯もない時代 どうしたかと言いますと なんと トイレの小窓から入ってたんです(笑)
両親共働きで帰りも遅かったので 夕食も自分達で作ってて 団欒という記憶があまりなく こんなミニミニ事件の記憶しかないけど やっぱりあの時代が良かったなぁ〜。
そうですとも。
まったくわが家も狭かったものです。
でも不必要に家が広くなり個室化すると、家族の心まで距離感が出来てしまうのかも知れませんねぇ。
開けっ広げな昭和の狭い家が、時として煩わしいながらも懐かしくてなりません。