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この方を昭和人なら、きっとご存知なんじゃありませんか?
ぼくは一度だけ、すれ違ったことがございます。
それは昭和も50年代に入ったばかりの頃だったでしょうか?
当時の古い古い名古屋駅の、地下鉄名古屋駅と名鉄名古屋駅、そして近鉄名古屋駅が、半地下のような狭い連絡通路で結ばれておりました。
確か非常に不鮮明なぼくの記憶によれば、近鉄名古屋駅側には床屋や蕎麦屋、それに一杯飲み屋のような小さな店が数件並んでいたと思います。
近鉄側から入り、名鉄名古屋駅を経て地下鉄名古屋駅へ続く、その狭い幅3.6mほど、高さ2.2mほどの連絡通路には、いつもシャボンの匂いと蕎麦屋の出汁の香、一杯飲み屋の味噌おでんの匂いが混じり合って立ち込めていたものです。
ぼくはその日も用があって、名鉄名古屋駅から近鉄名古屋駅へと、その連絡通路を進んでおりました。
するとすれ違う人混みの向こうから、何やら大きく朗らかな声が聞こえて来るじゃありませんか!
その声は糞狭い連絡通路を一歩二歩と進むうちに、より鮮明になってまいりました。
「指圧の心は母ごころ、おせば生命の泉湧く」と!
ええっ、待てよ!
確かにどっか聞き覚えのある名調子じゃないか!
そう思っている内に、人混みの向こうから、両手を前へ突き出し、親指を押し立てた、ぼくの不鮮明な記憶では、上半身裸で笑いながら大声を発し、あの浪越徳次郎先生がやって来られたんです!
でも果たして本当に、昭和50年代の初め頃とは言うものの、狭い連絡通路を上半身裸のまま、浪越先生ともあろう著名人が歩いていたとは、いささか考えにくいです。
ですからきっと上着は、治療着の白衣を召されていたのかも知れませんが、ぼくの記憶の中ではすっかり上半身裸として記憶に遺ってしまっていたようです。
いずれにしろ、狭い通路を通り抜けるまで、浪越先生は「指圧の心は母ごころ、おせば生命の泉湧く」と、大きな声で笑いながら繰り返され、人波がサッ~ッと割れ、道が開らけるようでした。
浪越先生と言えば、新婚旅行で来日し、胃痙攣で体調を崩したマリリン・モンローに、素手で指圧を施した唯一の日本人。

ご本人も後に、「そりゃあもう、とにかく綺麗な方でしたよ。いつもより三倍くらい時間をかけてしまいました」と語られたとか。
文字通り押しも押されもせぬ、日本を代表する指圧師でもいらっしゃったわけです。

ぼくも当時、もう少し心に余裕を持てていれば、冷静になって大学ノートの1ページを開いて、先生の拇印でも押していただけばたかもと、今さらながら痛感するばかりです。
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指圧の心は母心・・
なんでぇ?
子供心に思っていた。
指圧ってやたことがないけど
楽になるもんかな~~ぁ?
ツボでも色んなツボがあるよねぇ ❢
ツレが昔、よく言ってた。
今日は「ドツボ」にハマったぁ ❢
それもツボっち~ゃツボかぁ?
指圧は人肌の温もりが感じられて、とっても癒されちゃいますよ~っ!