「昭和Nostalgia」(444)

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飛騨びと言の葉綴り~古川町・谷口充希子さん – 飛騨市公式ウェブサイト


今日の「昭和Nostalgia」はコチラ!

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駄菓子屋通いの女の子に人気だったのは、こんなソフトクリーム擬きの、とてもカラフルなとんがり帽子のような形をした、「トンガリ菓子」でしたねぇ。

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たまに近所の幼友達の女の子に、お裾分けを頂戴したこともあったような?

はてさてその見返りとして、ぼくは何かを幼友達に差し上げたものやら?

とは言えぼくと来た日にゃあ、1日10円のお小遣いの使い道は、ほぼほぼ決まっておりました。

まず半分の5円ずつを、一つ年下のマー君と出し合い、二人で10円のWアイスキャンディーを買って、それを半分こに!

そして残った5円で、くじ引きの駄菓子に挑むのが常でもありました。

紐を引いて大きな飴玉を引き当てるクジや、やっぱりクジ付きの小袋に入った甘納豆、或いはクジ引きでより大きな黒棒に挑んだり。

同じ5円の投資で少しでも大きな駄菓子を手に入れようと、そんなものばかりを腕白坊主共は選んだものでした。

ところが儚い夢を追う腕白どもとは異なり、女の子たちは堅実に、その日のお小遣いを弄んだりもせず、可愛らしくって美味しそうな駄菓子コーナーに陣取っておられたものでした。

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だからぼくは、「トンガリ菓子」のお裾分けに対し、何かしらのお返しができたとしたら、せいぜいがクジ付きの甘納豆何粒かを、幼友達の女の子の掌に握らせたくらいのモノだった気がいたします。

この「トンガリ菓子」のコーンの中は、ソフトクリームのような冷やっこいクリームなどではなく、ゼラチンだったんだそうですねぇ。

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だから食感もサクッとしていたとか。

そもそもこの「トンガリ菓子」は、姫路あたりで盛んだったそうですが、やがて戦後になって名古屋市中村区十王町にあった井桁千製菓で、昭和27年頃より作られ普及したんだとか。

それからかれこれ73年。

女子に人気だった駄菓子も、現代とでは随分と様変わりしちゃったものですねぇ。


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投稿者: okadaminoru

1957年名古屋市生まれ。名古屋在住。 岐阜県飛騨市観光プロモーション大使、しがない物書き、時代遅れのシンガーソングライター。趣味は、冷蔵庫の残り物で編み出す、究極のエコ「残り物クッキング」。 <著書> 「カカポのてがみ(毎日新聞社刊)」「百人の天職一芸(風媒社刊)」「東海の天職一芸(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸2(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸3(ゆいぽおと刊)」「長良川鉄道ゆるり旅(ゆいぽおと刊)」

「「昭和Nostalgia」(444)」への2件のフィードバック

  1. これこれ!
    私にとって モロッコヨーグルの次に食べれない駄菓子なんです。
    女子に人気なのに ほんと可愛げが無いと言うか なんと言うか…
    確か 味も苦手だったし ミニコーンのパサパサ感も…
    友達は 可愛らしく食べてたなぁ〜

    1. あっちゃ~っ、夢ちゃんは苦手でしたかぁ!
      てっきり女子には、苦手な人なんていないかって、勝手に思ってましたぁ!

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