「昭和Nostalgia」(442)

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飛騨びと言の葉綴り~古川町・谷口充希子さん – 飛騨市公式ウェブサイト


今日の「昭和Nostalgia」はコチラ!

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微かな記憶でしかありませんが、昭和半ばの子どもの頃、真夏はともかく、春・秋・冬の3シーズンは、内職に精を出すお母ちゃんの傍らで、火鉢の練炭が点されていたものです。

火鉢にはアルマイトの薬缶が掛けられ、出涸らしの茶葉が広がった急須に、お母ちゃんは湯を注ぎ入れ、欠けた湯呑を啜っておりました。

ぼくは学校から帰って玄関の引き戸を開けると、真っ先に茶の間に蟠る匂いを吸い込み、その日のおやつに想いを巡らせたものでした。

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「ああっ、今日はかき餅だぁ」とか、「おおっ、今日は干し芋だぁ」ってな調子で!

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こうしたおやつは、毎日与えられる駄菓子屋分の10円とは別口であり、おやつで空腹を少し補ってから、10円玉を握り締め駄菓子屋へと駆け出したものでした。

そうやって思い出してみると、今でこそ「芋栗南京」が苦手ではあるものの、子どもの頃はそんな贅沢な好き嫌いなど言えようもなく、干し芋やら蒸し芋も渋々だったにせよ、ちゃんと食べていたのかも知れません。

まぁ、昭和半ばの時代は、今のように豊かじゃありませんでしたから、それでも十二分に幸せだったに違いありません。

あっ、待てよ!

じゃあ、不幸せってぇのは?

もしかしたら「不幸せ」には、そもそも決まった形など無いに違いありません!

何かにつけ周りと見比べ、周りを羨んだり妬んだり。

そんな心と言う色眼鏡で世間を眺めること自体が、不幸せの原型だったのかも知れませんですよねぇ。

お母ちゃんがおやつとして用意してくれていた、干し芋やら蒸し芋を「美味しい!美味しい!」と心からそう言えた、そんな素直だった子どもの頃が今となっては懐かしい限りです!

って、いや待て!

それは干し芋や蒸し芋が美味しかったと言うよりも、早くそれを食べ終え、お母ちゃんのがま口から10円玉のお小遣いをせしめたい一心だったと言う事かぁ!


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投稿者: okadaminoru

1957年名古屋市生まれ。名古屋在住。 岐阜県飛騨市観光プロモーション大使、しがない物書き、時代遅れのシンガーソングライター。趣味は、冷蔵庫の残り物で編み出す、究極のエコ「残り物クッキング」。 <著書> 「カカポのてがみ(毎日新聞社刊)」「百人の天職一芸(風媒社刊)」「東海の天職一芸(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸2(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸3(ゆいぽおと刊)」「長良川鉄道ゆるり旅(ゆいぽおと刊)」

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