今日の「昭和Nostalgia」はコチラ!

昨日は名古屋も雪が積もり、公園では親子連れが何組か、雪合戦をしてキャッキャキャッキャと声を上げていました。
寒空の中、その姿を眺めながら、娘がまだ幼かった頃、あんな風に雪合戦をしたものだなぁと感傷に耽ったものです。
上のモノクロ写真は、ぼくがまだ幼かった頃に見た光景とあまりにも似ていて、妙に懐かしさを感じてなりません。
その記憶とは、おそらくぼくがまだ3つ4つの頃のものだと思います。
お父ちゃんに連れられて、今日のような真冬の日に、三重の田舎に出掛けたのです。
お母ちゃんが一緒じゃなかったから、何かしらの用があったのでしょう。
名古屋から松坂まで近鉄電車に乗り、松阪駅から大石まで今では廃線となった三重電気鉄道松阪線に乗り換え、大石からは三重交通のバスで、粥見へと向かったものです。

その際の、大石駅の小さな売店の中から、松阪行の電車か粥見行きのバスを待つ間なのか、曇りガラスの窓から温められた牛乳瓶を、お父ちゃんと仲間で飲みながら雪の降る小さな駅前ロータリーを眺めていた風景にとても似ているのです。

ドラム缶の焚火で暖を取る学生服の少年、子を背負い褞袍を羽織る親子、革靴にコートの紳士。
そのいずれもが、不思議にも懐かしくもあり、ぼくの昭和半ばを象徴する原風景の一片のようでもあります。

そう言えばわが家にも、家族全員分のこんな褞袍があり、冬になると登場したものです。
確か高校に入る頃まで、ぼくはお世話になったものでした。
薄い綿布団を着ているようで、とても温かでしたねぇ。

今度どこかで、こんな辛子色の褞袍を見つけたら、部屋着に買ってみようかなぁ!
そしたら昭和半ばの温もりをもう一度、肌で実感できるかも知れませんよねぇ。
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母方の実家。髙木家の場合は瑞浪市です。中央線を多治見から乗って瑞浪で降り、線路下のガ─ドをくぐって上り、信号を渡って歩いて行くと、ご近所の方が母とボクを見て「あら、房ちゃん、元気?」と話かけてみえたり。化石を含んだでいるような層の階段を登ると母の実家のお寺でした✨
きっとそれが高木さんの御幼少の頃を思い起こさせる、お母さまとの尊い原風景かも知れませんですねぇ。
オカダさんは 褞袍って言うんですね! 私は 両親が 丹前って言ってたので そのまま覚えました。
学生の頃 赤い丹前を羽織りながら 試験勉強をしてたのを 今でもよく覚えてます。
子供が生まれてからも着てたけど 息子達の容赦ない動きに対応するには 丹前を着てると太刀打ち出来ないから いつの間にか押し入れの奥に…。
でも 着ると心地良いんですよね〜
。
丹前や褞袍は、裏起毛の温かさとも、ヒートテックの温もりとも違って、綿の重みが羽織ってる感と言うか、包まれてる感を意識させてくれるのが良かったような気がしますねぇ。