飛騨市の「広報ひだ」6月号「飛騨びと 言の葉綴り」が掲載されました。
「広報ひだ」の『飛騨びと 言の葉綴り』がこちらの25710.pdf (city.hida.gifu.jp)
残念ながら広報ひだの本誌は、紙面のスペースに限りがあり、掲載文は抜粋版となっております。文字数制限のないweb版も勝田萌さん(古川町) – 飛騨市公式ウェブサイト (city.hida.gifu.jp)併せてご覧いただければなによりです。
今日の「昭和Nostalgia」はコチラ!

ぼくが子どもの頃連れていかれた床屋さんは、バスで7つほど先の烏森と言うバス停の前にありました。
なぜその床屋さんに通うことになったかは、もう闇の中でしかありません。
その烏森は、近鉄と国鉄が乗り合わせ、複数の線路が敷き詰められ、東西の町を開かずの踏切が分断していたものです。
当時の踏切は自動などではなく、踏切には係り員さんがいて、時刻表と時計を確認し目視しながら、踏切を上下させる大きなハンドルを勢いよく回しておったものです。

しかしバスの上りは、踏切を渡った向こうに停留所があり、床屋さんも目と鼻の先。
ところが帰り道の下りのバス停は、さっき渡って来た開かずの踏切の向こう側に!
時間帯によっては、じれったくなるくらい踏切が上がらず、そうこうして居るとぼくが家まで乗って帰るはずのバスも踏切待ちに!

オジちゃんが遮断機を上下させるハンドルを回し始めると、直線にして50m以上はあろうかと言う踏切を駆け、その先にあるバス停まで全力疾走したものでした。

それにしてもあの重たそうな、遮断器を上下させるハンドル、一度でいいから回して見たかったなぁ!
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踏切番人とも呼ばれた人たち。
任された踏切は家族で守る!
そんな時代もあったそうです。
寝坊をして大事故に繋がった事例もあって、
番人が居なければそれこそ開かずの踏切になってしまいますからね。
オイラが心に残っているのは、
山崎 栄さんの事故。
明治の話なんだけどまさに家族の誇りを守り、
11歳で亡くなった少女の話です。
異種の交通形態が交差する異空間。
人間力だけでは成立出来ない場所ですよ。
「踏切番人」って、そんな異名があったんですかぁ!
そう言えば「灯台守」とかってぇのもありましたよねぇ。
何もかもが人間力に頼らざるを得なかった、遠い時代の記憶なんでしょうねぇ。