飛騨市の「広報ひだ」6月号「飛騨びと 言の葉綴り」が掲載されました。
「広報ひだ」の『飛騨びと 言の葉綴り』がこちらの25710.pdf (city.hida.gifu.jp)
残念ながら広報ひだの本誌は、紙面のスペースに限りがあり、掲載文は抜粋版となっております。文字数制限のないweb版も勝田萌さん(古川町) – 飛騨市公式ウェブサイト (city.hida.gifu.jp)併せてご覧いただければなによりです。
今日の「昭和Nostalgia」はコチラ!

ぼくがまだ小学生の頃は、中央線も高山本線も蒸気機関車が現役だったものです。
普通客車の窓は、手動式で下から上へと持ち上げ、夏なんかは暑気払いをしたものです。

窓枠の左右両方の一番下に、真鍮製のような金具の摘まみがあり、それを押し込んで窓枠全体を上部にはね上げるスタイルです。
ところが車内放送で「間もなくトンネルに差し掛かります。窓をお閉め下さい」ってな案内が流れると、あっちでもこっちでも窓側の席の人たちが、一斉に窓を閉め始めたものでした。

ところが運が悪いと、かなり年代物の客車のため、窓の上げ下げが思うようにスムーズに行えないものや、窓枠下の金具の摘まみがなかなか思うように押し込めず、窓を下げることが出来ないままトンネルに突入することもしばしば。
すると大変!
トンネルの中に吐き出された煤煙が客車内に舞い込み、煤が目に入ったら痛くって痛くって!
それに最後まで何とか窓を閉めようと、金具の摘まみを握り締めていた両手は煤で真っ黒!
だからでしょうか?
石炭や水を補給するため、長く停車する大きな駅のホームには、いくつも洗面所が設置されていたものでした。

ぼくも煤煙の煤を洗い流したものです。
そうした大きな駅には、駅弁の立ち売りの姿も見受けられたものでした。

それほどお腹がすいていなくても、ついつい欲しくなってしまったものでした。
やっぱり旅の食い意地に勝るものはなし!
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そのための名残りだったとは 気がまわらなかったです。ホームに なぜだかいつくもの洗面所がありました。
駅弁も懐かしや〜!
SL時代にゃ、なくちゃーならないホームの洗面所と、駅弁ですよねぇー!
2枚目の写真は とにかく懐かしいです。二人で窓を開ける時は「せ〜の!」って感じで 息を合わせたりして。
私は 写真のような座席だと 進行方向とは逆の席では酔ってしまうので 家族や友達と一緒の時は 優先的に座らせてもらうけど 問題は 一人の時。なかなか見つからない時は 諦めて ずっと立ったまま。
いつまでそれが出来るやら。(笑)
わかりますよ、逆方向に進行する車窓の景色は、ちょっと違和感がありますものねぇ。
飛騨市へ向かうワイドビューは、名古屋から岐阜駅までが後ろ向きで走行し、岐阜駅から高山線に入って、前向きの走行となります。
また逆に帰路はその反対で、岐阜駅から名古屋までが後ろ向きとなってしまいます。
まぁぼくら日本人なら案内放送の説明も理解できますが、インバウンドで訪日されている方にゃ、ちょっと違和感があるかも知れませんねぇ。
蒸気機関車は走ってましたよ。
残念ながら乗ったことは無いのですが、
ちょうど気動車や電車に移行する時代だったのか、
ダイヤもかなり減ってきてた頃でしたので。
乗車の苦労は経験無いですが、
陸橋の上から吐き上げる煤煙を浴びたものでした。
自宅が駅近の踏切の前だったこともあり、
音が遠くで聞こえると陸橋まで走っては待ち構えてましたよ。
ブラストの音は迫力ハンパ無し!
皆さん憶えてますかぁ。
” 日立ポンパ号 ”
日立のカラーテレビ広告の展示車として、
当時の国鉄がC11型蒸気機関車を頭に6両編成?での運行をしたのを。
ちょうどこの頃小学2年生で、
学校の裏を走る国鉄奈良線を走って行くのを観ました!
授業中でしたがもう大騒ぎでしたよ。
蒸気機関車も昭和の象徴ですね。
世の中が便利になり、
昔は当たり前だったことが姿を消していく。
歩くことを健康のためだとわざわざ時間を作る。
歩くって普通な事じゃなかったかなぁ。
不便だから消えていったのに、
なんか復活させて若者にウケる。
オイラも古いのかよ~わからんです( ^^) _旦~~
日立ポンパ号の実物をご覧になられたのですかぁ!
そいつぁー、貴重な思い出ですねぇ。
ぼくなんて写真でしか拝見したことありませんが、とんでもなくカラフルな客車を牽いていたんですよねぇ。