いよいよ飛騨市の「広報ひだ」で、「飛騨びと 言の葉綴り」の連載が始まりました。広報ひだ 2024年4月号 – 飛騨市公式ウェブサイト (city.hida.gifu.jp)
飛騨びと~言の葉綴り~ – 飛騨市公式ウェブサイト (city.hida.gifu.jp)
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今日からの「昭和Nostalgia」は、『小学校の想い出シリーズ①』です!まずはコチラ!

懐かしい風景じゃないですか?
ぼくは昭和39年に小学校に入学しました。
恐らく2~3年生くらいまでは、まだまだ敗戦国日本としての貧しさを引きずっていたのでしょうか?
給食の献立がどんなものであろうが、傍らにはアルマイトの食器に温かい脱脂粉乳が注がれたものでした。

大きなポットが重たく熱いせいか、写真の様に担任の先生が配膳してくださったように記憶しています。
周りの女子は、脱脂粉乳がどうにも臭くって飲めないと、涙を浮かべる子もいましたが、ぼくは全然平気で、飲めない子の分を何杯も飲んであげるほどでした。
ぼくが単なる味覚音痴だったのか、いつも鼻を詰まられていて、脱脂粉乳の独特な匂いを感じなかったのか、それとも貧しくっておいそれと牛乳が飲ませてもらえず、飢えていたからでしょうかねぇ?
今だったらとても飲めないかも知れませんが、それでもあの頃の脱脂粉乳をもう一度味わってみたい、そんな気持ちもあります。
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オイラは昭和45年入学?だと思う(^^;
流石に脱脂粉乳ではなかった。
200mlの瓶牛乳だす。
アルマイトの食器に先割れスプーン。
食パン2枚に1食分のビニールに入ったマーガリン。
これが基本形でそれにおかずが一品。
クラスにはそれだけじゃぁ足りない連中がおりまして、
牛乳は誰々から、
パンは誰々から、
おかずは誰々からともらう人をキープしてたね。
そのうち関西から中部に転校。
給食も形態が変わってね。
校内で作るものだと思ってたらセンターから配送されてて。
食器もトレーに代わってさ。
慣れないうちは手前のおかずをかき込んでたら、
上から別のおかずが顔に落ちてきたなんてこともあったね。
牛乳飲んでるタイミングで笑わせてみたりしてさ。
牛乳早飲みとかパンを何枚口に入れられるかみたいなことしてたなぁ。
でもまぁ、
給食のお陰で今の身体があるんだって思うね!(*^^)v
やっぱり給食は、学校生活の中でもピカイチの愉しみでしたものねぇ!
ぼくらのクラスにも、大食い大吞のやんちゃ坊主がいたものです。
昭和39年 私が生まれた年です。
だから 脱脂粉乳という名前だけは知っています。
幼稚園の頃は アルマイトの食器を見た記憶があるけど 小学校に入ると同時に ポリプロピレン製の薄黄色の落としても割れない食器に変わったと記憶してます。
熱い食べ物を入れても 食器自体は熱くなくて…。
牛乳は 瓶に入った物で 高学年か中学生になった頃に三角の紙パックの牛乳になりました。
食後に先生から 紙パックの畳み方の指導があったような…( ◠‿◠ )
給食… 好き嫌いを除いては 楽しい時間でした。
ポリプロピレン製の食器を見ると、病院食を思い出しちゃいます。
でも割れないから、理にかなっているってぇ事なんでしょうねぇ。
三角牛乳の紙パックの畳み方なんてぇのもあるんですねぇ。
懐かしすぎます。
脱脂粉乳と言われるまで ずっと牛乳だと思っていました。脱脂粉乳の入っていた入れ物の口がそそぐ時に 開くようになっていたような 形もどっしりしていて好きでした。私も脱脂粉乳が好きでした。アルマイトにマクが出来るのも好きでした。(みんなこれが苦手だったみたい)
オブラートのような膜でしたねぇ。
それだけスプーンで掬って食べたりしたものです。