郡上八幡駅界隈「ニッキ玉の駄賃」
昭和の半ば。
よく母にお使いを頼まれたものだ。

隣のご隠居の家へなんぞ、ちょいと回覧板を届けに行ったりするだけで、お駄賃と称しては、広告チラシに包んだ飴玉などを貰えたものだ。
当時のお駄賃にこれと言った決まりなど無かった。
煎餅やアラレであったり、時にはラムネ菓子などという変り種もあった。
お駄賃の対象となる菓子は、だいたいその家のお茶請けとして、卓袱台の菓子鉢へと開け移された、お徳用袋入りのものであったりしたものだ。
しかし時には、意外な大当たりを引き当てたりする。
だからお使いも、これで中々止められない。
運さえよければ、どこか名だたる観光地の名物饅頭などに、ひょっこり出くわしたりするものだから。
言わば当時のお使いは、子どもらにとっての、ちょいとしたオヤツ稼ぎの場でもあったのだ。
ところが今では、お使いという言葉すら耳にしなくなった。
ぼくが子どもの頃は、学校から大急ぎで戻り、母の目を盗んでこっそり遊びにでも行こうとすると、何処からとも無く母の呼び声がして、その出鼻を挫かれたものだ。
そしてやおらあれこれと、矢継ぎ早にお使いを言い付かる。
「ちょっと、○○さん家のおばちゃんとこ行って、鍋返してきて。昨日お裾分けにもらった、あの煮物が入っとった鍋を」と。
今思えば母は、きっとぼくが学校から戻るまでに、何やかやとお使い仕事を用意していたに違いない。
確かに平成の今と、昭和半ばの世では、暮らし向きにも雲泥の差があり過ぎる。
それに今の子どもらは、学校から帰っても遊びに出掛けるどころか、息つく暇も無く、習い事や塾へと追い立てられるのだから、お使いどころの騒ぎではないはずだ。
もはや「お使い」は、昭和の死語となって滅び果てたのだろうか?

桜間見屋の店先で、土産の品定めをしながら、缶に入った肉桂玉を眺めていたら、そんな昔の「お使いの駄賃」が思い出された。
確かこの肉桂玉を、初めて駄賃にもらったのは、隣に住むご隠居さんのお婆ちゃんからだったか。

琥珀色の大きなあめ玉を、光に翳すと広がる一つの独特な世界観に、子ども心もときめいたものだ。
「美味そうなニッキ玉やないの」。
母が覗き込んで羨ましそうにつぶやいた。
ここで取り上げられてはなるものかと、急いで小さな口一杯に頬張った。
しばらくすると、ピリリとした刺激が舌先を突き刺す。
当時の子どもにとって飴と言えば、とろけ出すような甘さという先入観しか無い。
だから、初めて口にしたニッキ玉は、どうにもエキゾチックな未知の香りと味がして、ついたまらず吐き出した。
するとすかさず母が手のひらを翳し、ぼくが吐き出したニッキ玉を、自分の口の中へと放り込んでしまったではないか。
「やっぱり子供には、ちょっと刺激的やろ」と、子どもが稼いだお使いの駄賃を、有無を言わさず取り上げてしまったのだから恐れ入る。

そもそも駄賃のニッキ玉を貰う事となったお使いは、当時わが家で飼っていた雑種犬のジョンがしでかした、不始末の尻拭いに端を発する。
別名を「縄抜けのジョン」と渾名されたヤツは、中々の凄腕で、何度と無く首輪を擦り抜け、町内中を駆けずり回ったものだ。
それだけならまだしもだが、ヤツには妙な性癖があった。
町内中を駆け回っては、人様の玄関先から履物の片方だけを咥えて持ち帰り、我が家の勝手口にと放り出す。

だから勝手口には、下駄から長靴に突っかけ、ズックに革靴まで、片っぽだけの履き物が無造作に放り出されるはめになる。
その度に父も母もぼくも、みんなで手分けし片方だけの履物を携え、持ち主を探しながら近所を侘びて回ったものだ。
だからその日も確か、隣のご隠居の家に、爺さんの下駄でも返しに行ったのだろう。
ジョンの歯型がくっきりとついた下駄を持って。
ところがお婆ちゃんは、それを目にしても取り立てて気にする様子も無く、「ハイハイ、ご苦労さんやったね」と笑いながら、「ちょっと待っとってな。今お駄賃持ってくるで」と。
懐紙に包んで差し出された大きな飴玉が、ニッキ玉との出逢いであったわけだ。
母に上前を撥ねられたニッキ玉は、もうそれ以来二度と、お使いの駄賃として登場することはなかった。
しかしそうなると子ども心にも、あの日の口惜しさだけが深く刻まれる。
もっとゆっくり味わって舐めていたら、あの刺激が今度は心地よく変わり、絵も言われぬ味わいを醸し出したのではなかろうかと。
ついにその念願も叶わぬまま、すっかり大人になりいつしかニッキ玉への執念も消え果てた。
ところが、である。
現在も連載中の「天職一芸(毎日新聞毎週土曜朝刊)」の取材で、数年前この桜間見屋を訪ねた。(2011.9.13時点)

しかしその時点ではまだ、子どもの頃に駄賃として貰ったニッキ玉と、この肉桂玉が同じものとは思いもよらず、「まあ、お一つ食べて見て」と、お茶菓子のように供されるまで気付かなかった。
「初めて口にする子どもには、慣れるまでちょっと刺激的やろな」。
郡上市八幡町本町、明治20(1887)年創業の桜間見屋、六代目主の田口大介さんが笑う。

「前は『大間見屋』やったんですが、昭和の初めに祖父が創業家から買い取らせてもらって、『大』を『桜』に代えて桜間見屋を名乗るようになったんやて」。
桜間見屋の肉桂玉は、ザラメの白と、黒砂糖の黒の2種類。
「普通の肉桂玉は、グラニュー糖。でも家では、後味がさっぱりするようにザラメを使ってます。だからグラニュー糖よりも作り難いんですが、その分口の中で溶け難く、長持ちするんやて」。
肉桂とは、クスノキ科の常緑高木の樹皮を剥ぎ取り、乾燥させたもので生薬としても用いられる。

「日本に渡来した肉桂は、根っこの部分にしか辛味が無く、樹皮は使えんのやて。それで家では、香りが一番良いと言われる中国原産のカシアを取り寄せてます」。

肉桂玉を頬張ると、表面に塗したグラニュー糖がさっと溶け去り、中からほんのりとニッキの香りが溢れ出す。
懐かしくもあり新鮮でもあるエキゾチックな味覚。
子どもの頃のあの無念さも、あっと言う間に溶け去ったものだ。
「あれっ?今日はこれから、郡上踊りですか?」。
黒肉桂の缶入りを手にしていると、主が気付いて声を掛けてきた。
「どうもこの暑さで、冷たい物ばっかり口にしてたから、何か胃がどんよりとして」。
そう苦笑いを交えて告げると、「それやったら肉桂玉舐めとったら、胃もすっきりして行きますに。昔から肉桂は、健胃に良しとされてますから」と。

すっかり陽が傾いた、郡上の町並み。
家並に提灯の火が燈る。
打ち水の通りに、響く下駄の音。
吉田川の畔から、三味と笛太鼓に合わせ、「かわさき」の名調子に乗り、郡上の夏の夜がいま幕を上げた。
桜間見屋/郡上市八幡町本町
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肉桂玉・・
懐かしいぃ⤴美味しいよねぇ!
今じゃ・・
飴玉を買う人は、黒柳徹子さんか
大阪の熟女の方々しか買わないかも?
せいぜい「のど飴」かなぁ?
郡上もしばらく行ってないな~ぁ⤴
春になって暖かくなったら散策に訪れたいもんです。
大ちゃん家のニッキ飴、本当に美味しいですものねーっ。
郡上はやっぱり夏の暑いときに、浴衣姿で下駄を鳴らして漫ろ歩きたいものです。
もちろんキンキンに冷えた、キリン一番搾りを片手にだったら、とんでもなく最高ですねーっ。
ニッキ飴 ちっちゃくなったなぁ〜と思っていたら自分が大きくなってたんですね。
最近のマイブームはシナモンティーなんですけど ついつい シナモンスティックまで買ってしまいました。
まだ若かった頃、喫茶店でカプチーノを大人びて注文したところ、シナモンスティックが入っていて、果たしてそれはスプーン代わりにかき混ぜるための物なのか、おつまみのように食べるものなのか、悩ましくってしかたなかったものです。
背伸びなんてするもんじゃありませんねーっ。
「おつかい」という言葉、まあ聞かんようになりましたね。現代の親御さんも、ご子息やご子女さんを「おつかい」に出されへんようになってまったのでしょうね。ワシはよく行かされました。八百屋や玉子屋さんに行きました。そう言えば、八百屋さんもトント見かけないようになりました。また、村にあった養鶏場も無くなって久しいです。もっとも、鳥インフルエンザの問題で養鶏場には一般人は入れないようになったことも原因でしょうが。池田町にはニッキ餅を売る老舗があります。ワシも好きです、ニッキ餅。
昔のお遣いは、子どもの駄賃稼ぎに欠かせぬものでしたよねーっ。
ニッキ餅って初めて聞きました。
大人の味のようで興味が沸きますねーっ。
ニッキ
飴玉としては食べた事がないけど 小学生の頃 母方の田舎の熊本に帰った時 叔父さんがニッキの根っこを見せてくれて「齧ると美味しいよ!」と教えてくれたのを鮮明に思い出しました。
興味津々で口に入れてガジガジっと歯で噛んでみると あれ?嫌いじゃないぞ⁈ 口の中がスッキリ!
小学生ながらに 物凄く好みの味だった事を思い出しました(笑)
もちろん八ツ橋も元祖八ツ橋の味が大好きです。
子供の頃から渋めが好みだったのかも知れませんね⁈ ( ◠‿◠ )
そりゃあ大人びた味覚の持ち主だったんですねーっ。
あのエキゾチックな味がちっちゃな頃に分かっちゃうなんて、大したオコチャマでしたねーっ。