ゆいぽおと「 長良川鉄道ゆるり旅」2011.9.13 ⑥

関駅界隈「そばきり助六」

♪僕は無精ヒゲと髪をのばして 学生集会へも時々出かけた

就職が決って髪を切ってきた時 もう若くないさと 君に言い訳したね♪

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昭和50年の名曲、詩・曲/荒井由美の「いちご白書をもう一度」の一節だ。

「そうやて。まさにその通りなんやったって。ぼくも大学の卒業が近付き、同期の仲間たちが髪を切り揃えて就職活動を始めた時、そんな仲間の姿を見るのが虚しくって。『俺は、ぜったい蕎麦屋やろう』と、京都烏丸の蕎麦屋に履歴書持参で飛び込んだんやて。そりゃ若かったし。そしたら店の主が『あんた大学まで出はったのに…。なんぞ人に言えやんような悪いことでもしやはったんか?』と真顔で訝られて。それでも何とか修業させてもらったんやて」。

関市本町の「そばきり助六」、二代目主で蕎麦打ち職人の小林明さん(55歳)は、ラジオから流れる「いちご白書をもう一度」に合せ鼻歌を一捻り。

刃物産業で栄えた関市は、古来より高山へと続く飛騨街道や、郡上とを結ぶ街道の要衝。

馬車()き目当てに食堂が軒を連ね、銭湯も5軒を数える賑わいぶりだった。

「家は元々、中華そばがとんでもなく美味(うま)い繁盛店で、みんな風呂上りや映画見た帰りに『助六でそば食べてこ』って。でも『そば』は、蕎麦じゃなくって『中華そば』のことだったんやて」。

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昔ながらの支那(しな)そば風、和風出汁の効いた素朴な味わいで、町の衆から旅人にまで愛され続けた一品だ。

主の明さんは助六開店の年、昭和30(1955)に長男として誕生。

やがて京都の大学へと進学。

「とにかく家業が嫌で嫌で。役人や銀行員のような、普通の生活に憧れとったんやて」。

商売屋ゆえ、家族揃っての食事もままならず、ましてや家族旅行などもってのほか。

子供の頃の歯痒さが、主をそんな思いに駆り立てた。

大学在学中は、もっぱら各地のユースホステル巡り。

「貧乏学生やで、旅先で美味いもん食べよとすると、蕎麦が一番手っ取り早くて最適なんやて」。

ある日、出雲大社近くの蕎麦屋で蕎麦湯を供された。

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「何なんやろう?頼みもしとらんのに。周りの人らの様子見ながら、真似て飲んでみたんやて。そしたら滋味があって、滅法美味い」。

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それが蕎麦の魅力に取り憑かれた瞬間だった。

そして迎えた卒業。

だがやはり、無難な人生への道を歩もうとはせず、敢えて多難な蕎麦職人の道へ。

その時背中を押したのが、冒頭の「いちご白書をもう一度」だったのだろう。

蕎麦屋の修業は、毎朝5時から夜9時まで、無休の日々が2年続いた。

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「技術の習得は早かったんやて。だって両親の後姿見て育ったんやで。たぶん体内時計が覚えとるんやろな」。

蕎麦打ちの技術は得たものの、蕎麦への執着心は止まるどころか、更にもっと深みへと向う。

石臼挽き自家製粉にこだわる、高山の蕎麦屋を探し出し、頼み込んで住み込みを開始。

朝8時から深夜0時まで、蕎麦を石臼で挽き、蕎麦打ちを繰り返した。

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昭和55年、中華そばで助六を切り盛りし、子どもたちを育て上げた父が心臓病に。

主は取るものも取らず、夜行列車で帰郷した。

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年老いた母一人に、助六を(ゆだ)ねることは忍びなく、そのまま高山の蕎麦屋を辞して家業へ。

助六で「そば一杯ちょうだい」と言われれば、それは兎にも角にも中華そば。

助六で蕎麦を出したいと舞い戻った主は、愕然(がくぜん)とする日々が続いたという。

昭和60年、店舗の改装に合せ、周りの反対を押し切り、名代の一品であった「助六の中華そば」を品書きから消した。

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「お客さんが『そば、ちょう』って注文するもんやで、『蕎麦』を出すと『嘘やろう?』って、目が点になって。今でも『助六のたあけ坊が』って言われるほどやて」。

2年後には、板取村の農家の協力を得、蕎麦作りも始めた。

「『毎週関から変わり者が来る』って言われながら通い詰めて。じきに気心が通じて、『昼飯どうや、風呂入れ、泊まってけ』って」。

一途な蕎麦職人は、何時しか「(すけ)さ」と親しみを込めて呼ばれるほどに。

それから7年。

板取村の農夫から一本の電話が入った。

「『助さ、家の下の娘どう思う?ええのか、悪いのか、どっちや』って、えらいせっつかれて」。

主は天麩羅を上げながら、思わず「ええと思うわ」と答えた。

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それが妻みちるさん(52歳)との馴れ初めだ。

蕎麦作りへの情熱は、そのままみちるさんへの熱き想いでもあったのだろう。

主は前日に石臼で蕎麦を挽き、翌朝6時半から1時間半かけ、混じり気の無い蕎麦粉を、生子(きこ)打ちで仕上げる。

板取産生山葵(わさび)のピンッとした刺激が、(りん)とした辛口の笊汁(ざるつゆ)を際立たせ、冷水にもまれた蕎麦は、蕎麦粉本来の香りと味を引き立てる。

未だ日に3人程が、幻の中華そばを所望するほどの助六で、「そば」が『蕎麦』として認められるまでには、ゆうに15年の歳月を要した。

「高級蕎麦とかじゃなく、フラッと入れる庶民的な町場(まちば)の蕎麦屋が目標なんやて」。

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誇張した宣伝文句も、薀蓄(うんちく)も一切無用。

黙って座して(ひと)(すす)り。

さすれば(うな)る間も無く「おやじ、もう一枚」と、呟いているはずだ。

「まあ、この新製品もいっぺん食べてみやあ」。

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主の勧めに応じ、平成19年から売り出されたという「円空なた切りそば」を、塩を振っていただくことに。

平打ち蕎麦は、ちょっと幅の広いきしめんのように厳つい。

だが、根っからの蕎麦好きには、恐らく応えられない一品だろう。

夜の特別コース(要予約4人以上、1日1組限定)では、主人が厳選した季節の野菜の天麩羅と、蕎麦が2~3種、それに蕎麦がきと、蕎麦がきぜんざいのデザートまで、9品の蕎麦尽くしが楽しめる。(2011.9.13時点)

「昔のお客さんから『助六の中華、わしの目の黒いうちに、まあいっぺん復活させてくれんか。頼むわあ』って言われると、この年になって改めて、親父の凄さを感じるようになたわ」。

―――生涯、町の衆から愛される、町場の蕎麦屋であり続けたい―――

主の潔すぎる矜持が、脳裏を離れようとしない。

その一方では、モダンな料亭を思わせる内装で、聞きもせぬのに蕎麦とはなんぞやを説き、薄っぺらな薀蓄で蕎麦を高価に仕立て上げる無粋な輩もいる。

蕎麦喰いには、もっともらしい作法も薀蓄も要らぬ。

ただ何より、旨い蕎麦を思う存分啜りたいだけなのだ。

「おおきに!」

主の声に振り向くと、「千客万来」の書が目に入った。

愛娘の()(あや)ちゃん(13歳)が幼い頃、最初に書いた作品だ。

何者にも縛られない、自由で伸び伸びとした清らかな筆遣いが、見る者の心を捉えて放さない。

―千客万来―

主自身が旨いと思えぬ物しか供さない、それがそばきり助六の、町場の衆の饗応料理。

萬屋町 そばきり助六/関市本町

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投稿者: okadaminoru

1957年名古屋市生まれ。名古屋在住。 岐阜県飛騨市観光プロモーション大使、しがない物書き、時代遅れのシンガーソングライター。趣味は、冷蔵庫の残り物で編み出す、究極のエコ「残り物クッキング」。 <著書> 「カカポのてがみ(毎日新聞社刊)」「百人の天職一芸(風媒社刊)」「東海の天職一芸(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸2(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸3(ゆいぽおと刊)」「長良川鉄道ゆるり旅(ゆいぽおと刊)」

「ゆいぽおと「 長良川鉄道ゆるり旅」2011.9.13 ⑥」への6件のフィードバック

  1. いちご白書をもう一度♫
    良い歌です。
    1975年 昭和50年
    20歳だった、もう過去になってしまったが
    誰も知らんで言うけど「モテ期時代」だったな~ぁ⤴
    歌って言うのはイイも悪いも過去を蘇らせてくれるね~ぇ!
    さてモテ期時代と言えば・・
    長くなるんで、やめたぁ!
    嘘か?本当か?分からんような
    話、誰も聞きたくないだろうしねぇ
    今度会った時にでもお互いの武勇伝を話し合いましょう!

    1. 誰にも、どんな動物や昆虫の雄にも、必ずDNAを後の世に遺すために、「モテ期」って存在してるような気がします。
      ついつい人間は思考を繰り返す性質があり、そんな人生一度だけの大切な瞬間を自ら見逃してしまったりもするものかもしれませんよねーっ。
      もうとっくに「モテ期」を通り越した初老男には、少なくとも身綺麗さを保ち、チャーミングな老人を目指したいものです。

  2. 子供の頃は、うどん、きしめん、中華そばだったのが、インスタントラーメンが出回ったりしてラーメン一択!! 今は、美味しいお蕎麦をお蕎麦屋さんで食べたい。天ぷらも付けちゃうぞ(๑´ڡ`๑)

    1. 蕎麦自体も自分好みの食感で、尚且つ汁自体も自分好みの蕎麦屋と出逢えたら、そりゃーもう最高ですよねーっ。

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