ゆいぽおと「 長良川鉄道ゆるり旅」2011.9.13 ②

美濃太田駅界隈「駅弁売りの名物松茸釜めし」

「松茸の釜めし~っ、美濃路名物、松茸の釜めしはいらんかな~」。

普通列車の扉が開くと同時に、男は唄う様な声を響かせた。

写真は参考

すると列車の窓が持ち上げられ、あちらこちらから男を呼びとめる。

「へいっ、松茸釜めし。一丁、950円ね。毎度あり~っ」。

男は首から、帆布の紐で木箱を腹の前に吊るし、隣りの車両へと一目散に駆け出す。

「昔はこの美濃太田で、高山線に乗り換える客も多かったで、売り子が三人もおって、面白いくらいによう売れたもんやて。でもまあ今はあかんわ。昔の急行と違って、特急は窓が開かんし停車時間も短いで、今はもっぱら普通列車の客ばっかや。それに高速道路が開通してからは、電車の利用客そのものも減ってまったでな」。

美濃太田駅の3・4番線ホームに店を構える、名物松茸釜めしの向龍館、二代目主の酒向茂さん(65)だ。

「あっ、あかん。上りの列車が入って来た」。

酒向さんは首から木箱を吊ったまま、階段を駆け上り1・2番線のホームへと駆け下りてゆく。

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「まあ一日に何回、あっちのホームとこっちのホームを、行き来せんならんことか。だんだん歳入ってくるとしんどいもんやて。今みたいに上りと下りが、ちょっとの時間差でホームに入って来る時はまだましやわ。まったく一緒の時間に、入って来ることもあるんやで。そうすると向こうのホームから、客が『お~い、はよ来てくれ』って、手振って呼ばるもんで、こっちも大慌てやて」。

構内に短い汽笛の音を残し、下り列車が走り出した。

酒向さんは昭和19年の生まれ。

高校を卒業すると、東京のアイスクリーム材料の店へ。

「父は昔、駅弁始める前に、アイスクリームを作って、駅に収めとったんやて。それでその関係で『しばらく他所の飯喰うてこい』って」。

昭和40年、21歳で家業へ。

東京五輪も大成功を収め、世はまさに高度経済成長の上り坂を、まっしぐらに突き進んでいた。

「昭和43年やったわ。ちょうど国内旅行が流行り出した頃で、デパートの駅弁大会もえらい人気やって、家も松茸の釜めしを出品しとったんやて。そん時にアルバイトで来とったのが、今の嫁さんや」。

やがて二男一女が誕生。

旅行客も鰻登りに、小京都高山を目指した。

「当時の釜は瀬戸焼で、お釜の木蓋は木曽ヒノキやったんやて。だで首から釜めしぶら提げて、一日中売り歩かなかんで、重たて重たて。肩凝ってしゃあなかったわ。それでも食べ終えた瀬戸物の釜を、昔はみんな大事そうに持ち帰ってくれたもんやて。それが今や強化プラスチックなんやで、何とも味気ないわな」。

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ゴミ処理問題が浮上し、4~5年前から陶器の釜も木蓋も強化プラスチックに様変わりしたという。

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そう言えば10年ほど昔、インドの田舎を取材で訪ねた折り、チャイ(ミルクティー)の露天で、完全なリサイクルの姿に触れた。

わずかな小銭を差し出すと、チャイ売りのオヤジは、素焼きの赤茶けたぐい飲みほどの器に、沸かしたてのチャイを注ぎ入れ、無愛想な顔で差し出す。

客はヒンディー語をまくし立て、2口3口でチャイを飲み干すと、素焼きの茶器をそのまま、地べたに叩き付けて粉々にしてしまう。

そして1~2度ゴム草履の裏側で踏み均し、地べたの土と同化させていたのだ。

一度きりしか使わない茶器だから、衛生面でも非常に優れている。

だが、残念なことに欠点もあった。

それは、チャイを熱いうちに2口3口で飲み干さなければ、素焼きの茶器に染み込んでしまう点だ。

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だからぐい飲み程度の大きさが、実に理に適っている。

大き過ぎれば飲みきるまでに時間が必要となり、それだけ素焼きの茶器がどんどんチャイを吸い込んでしまうからだ。

だとすれば、昔の釜めしの釜も、素焼きに近かったわけだから、細かく粉砕してしまえば土に返せたはずだろう。

しかし、昭和も40年代中頃には、ほとんどの道路が舗装されてしまい、今では公園ですら土の塊った場所を探すとなると、花壇や植栽の根元にしか見当たらない。

だから手軽に土に返すこともならず、本来地球の表面を覆っていたはずの土までが、今や厄介者扱いされる始末だ。

こんなことで先進国と、踏ん反り返っていていいものか。

たしかわが家では、ぼくが学校帰りに捕ってきたメダカを、母が釜めしの釜を水槽がわりに飼っていたものだ。

小さな水草を浮かべ。

「あっ、今度はあっちのホームで手挙げとるわ」。

酒向さんは階段を駆け上がり、今度は長良川鉄道のホームへ。

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ディーゼル列車が白い煙を吐き出し、発車のベルならぬ電子音が、ホームに流れ出した。

向龍館/JR美濃太田駅三・四番線ホーム(2011.9.13/現在は閉店)

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投稿者: okadaminoru

1957年名古屋市生まれ。名古屋在住。 岐阜県飛騨市観光プロモーション大使、しがない物書き、時代遅れのシンガーソングライター。趣味は、冷蔵庫の残り物で編み出す、究極のエコ「残り物クッキング」。 <著書> 「カカポのてがみ(毎日新聞社刊)」「百人の天職一芸(風媒社刊)」「東海の天職一芸(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸2(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸3(ゆいぽおと刊)」「長良川鉄道ゆるり旅(ゆいぽおと刊)」

「ゆいぽおと「 長良川鉄道ゆるり旅」2011.9.13 ②」への6件のフィードバック

  1. お弁当の包装紙をみると、2019年まで販売しておられたのですね。ワシは若い頃は、お肉の駅弁が、すこしオジイになったら海鮮系のお弁当が、そしてホンモノのオジイになったら山の幸系のお弁当にと、嗜好が移ってまいりました。いまは横川駅の釜飯が大好物です。惜しむらくは、美濃太田駅の「松茸の釜飯」を戴いていなかったことです。

    1. その地その地の特産を盛った駅弁は、旅情を盛り立ててくれる名脇役ですものねーっ。
      それとやっぱりその土地の地酒も忘れちゃなりませんよねーっ。

  2. 松茸釜めしではありませんが
    峠の釜めし・・
    恐縮ですが
    私の思い出ではありません
    又・・我が家の嫁様の話
    子供の頃、数年に一度
    郡上、大和から犬山へ遊びに・・
    遊園地と美濃太田で買って貰う釜めしが唯一の楽しみだったそうで
    たまにスーパーで駅弁祭りとかで
    懐かしさのあまり買って食べています。
    遥か子供の頃の思い出なのに妙に覚えている事ってありますよねぇ!
    68歳になった私、忘れもしない4歳位の頃
    保育園からの帰り、家まで後10歩ほどなのに
    我慢出来なくてチビッタ事をいまだに忘れられません!
    今年一番「ウン」の付く話でした。

    1. 子どもの頃の思い出の味は、当時の思い出自体をより鮮明化させてくれる、記憶の蘇り機能があるんじゃないでしょうかねーっ。
      みんな多かれ少なかれ、落ち武者殿同様に、緊迫感に耐え切れずお漏らししちゃった、なぁ~んてことあるんじゃないでしょうか。
      ぼくだって恥ずかしながら、そんな記憶もちゃんとあります。

  3. 実家の庭には 接木をした松が この釜飯の器に植えられて 手作りの盆栽棚にきれいに並んでいましたよ~
    木の蓋は スノコ代わりになっていました  笑

    お客様からお土産で頂く事が多く 食べ終わると父親が釘とトンカチで器の底に小さな穴をあけているのを 姉と見ていましたね (⁠◍⁠•⁠ᴗ⁠•⁠◍⁠)⁠❤

    今でもお隣のお庭には この釜飯の器にお花が植えられていますよ (⁠ ⁠◜⁠‿⁠◝⁠ ⁠)⁠♡

    我が家では最近 熱燗を呑む事が無くなり 陶器のお猪口の出番がありませ〜ん 

    ♡ 昨日 ニューヨーク在住 ギタリスト 吉田次郎さんの演奏と 歌手 マリーンさんの歌声を間近で聴く事が出来 とっても とっても と~っても 幸せな一時を過ごさせていただきましたよ ♪♪♪  ♡

    次はオカダさんの Live ♪♪♪ 
    楽しみ ♡

    1. 盆栽鉢の再利用ですかぁ!
      ぼくん家は、金魚鉢代わりでした。
      しかし、そりゃあ何とも素敵なライブを愉しまれましたねーっ。
      何より何より!
      次はぼくもライブのお知らせが出来るように頑張って準備中です。

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