2006.1 毎日新聞 新年別刷③

「名駅摩天楼計画」③

『食卓の王様、卵焼き』

「巨人大鵬卵焼き」。

今ほど豊じゃなかった昭和の半ば。

それでもぼくらは、継ぎ接ぎだらけの半ズボンで、一年中だって過ごせた。

草野球に砂場の相撲、ちょっぴり甘くて焦げ目の付いた卵焼き。

当時を生きた子どもたちにとって、卵焼きほどのご馳走はなかった。

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それは貧しかった、ぼくの家だけだろうか?

でもきっと、一部の裕福な家の子を除けば、大半の子供たちに愛されたからこそ、当時を形容する言葉として、冒頭のフレーズが歴史の一コマとして、しっかと横たわっているのだ。

そう言えばよくバケツを持って、養鶏やってる農家に、卵買いに行かされたものだ。

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地面に産み落とされた、糞まみれの卵。

でもとても楽しみだった。

卵掛けご飯の朝。

双子の卵だったりしたらもう大騒ぎ。

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たったそれだけで、一日中幸せになれた。

そんな思い出に浸りながら、ぼくは名古屋国際センターの東脇で、文字の薄れた看板を見上げていた。

タイル貼りの壁と、木製の引き戸。

名古屋市西区那古野、鶏肉鶏卵卸小売の西田商店二代目、S.Nさん(55)は、せっせと脇目も振らず、得意先に収める商品の小分けに没頭。

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「岐阜の瑞浪から仕入れた鶏を、その日の朝に締めて、氷水で冷やしてから、料理屋さんに配るんだわ」。

新潟出身の父が、名古屋で奉公し、戦中に独立開業。

Nさんは高校を上がると、直ぐに跡を継いだ。

「でも私が22歳の年に、父が亡くなって」。

以来、たった一人で商いを続けた。

「卵も昔は、今より高級品だったでねぇ」。

「そう言えば、ぼくらの遠足の弁当って言ったら、おにぎりと卵焼き」。

「それと、よっぽどじゃないと買って貰えなかった、台湾バナナだったし」。

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ついつい我が娘の、彩り豊富な弁当が思い浮かんだ。

何とも切ない溜め息と共に。

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投稿者: okadaminoru

1957年名古屋市生まれ。名古屋在住。 岐阜県飛騨市観光プロモーション大使、しがない物書き、時代遅れのシンガーソングライター。趣味は、冷蔵庫の残り物で編み出す、究極のエコ「残り物クッキング」。 <著書> 「カカポのてがみ(毎日新聞社刊)」「百人の天職一芸(風媒社刊)」「東海の天職一芸(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸2(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸3(ゆいぽおと刊)」「長良川鉄道ゆるり旅(ゆいぽおと刊)」

「2006.1 毎日新聞 新年別刷③」への4件のフィードバック

  1. 卵焼き、母は砂糖に少し塩を加えて作ってくれました。歳をとってからは卵焼きを食べなくなってしまいました。

    1. 家もお母ちゃんの卵焼きは、砂糖が入った甘いものでした。
      だからか、表面が焦げていることが多かったものです。
      遠足や運動会のお弁当では、真っ先にお母ちゃんの卵焼きに手を付けたものです。

  2. タマゴ料理は大好き
    かつ丼、親子丼、たまご丼
    どれも同じようなもんだけどねぇ!
    ただ!砂糖を入れる卵焼きは納得出来ない所があります。
    台湾バナナはブランド品チョット値段もお高目・・
    そう言えば岐阜の高富だったか?
    皮ごと食べられるバナナが有るとか!
    本当に大丈夫?なの~ぉ?
    と、思わせるバナナ一回食べてみたい・・

    1. ぼくも酒を飲むようになってから特に、卵焼きのお砂糖入りは箸が進まなくなりましたが、それでもお砂糖入りの卵焼きが無性に食べたくなる時もあります。
      昭和半ばの頃のバナナは、病気になって寝込むか、それこそ遠足や運動会と言った時にしか、なかなか食べさせて貰えなかった気がします。

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