「名駅摩天楼計画」③
『食卓の王様、卵焼き』
「巨人大鵬卵焼き」。
今ほど豊じゃなかった昭和の半ば。
それでもぼくらは、継ぎ接ぎだらけの半ズボンで、一年中だって過ごせた。
草野球に砂場の相撲、ちょっぴり甘くて焦げ目の付いた卵焼き。
当時を生きた子どもたちにとって、卵焼きほどのご馳走はなかった。

それは貧しかった、ぼくの家だけだろうか?
でもきっと、一部の裕福な家の子を除けば、大半の子供たちに愛されたからこそ、当時を形容する言葉として、冒頭のフレーズが歴史の一コマとして、しっかと横たわっているのだ。
そう言えばよくバケツを持って、養鶏やってる農家に、卵買いに行かされたものだ。

地面に産み落とされた、糞まみれの卵。
でもとても楽しみだった。
卵掛けご飯の朝。
双子の卵だったりしたらもう大騒ぎ。

たったそれだけで、一日中幸せになれた。
そんな思い出に浸りながら、ぼくは名古屋国際センターの東脇で、文字の薄れた看板を見上げていた。
タイル貼りの壁と、木製の引き戸。
名古屋市西区那古野、鶏肉鶏卵卸小売の西田商店二代目、S.Nさん(55)は、せっせと脇目も振らず、得意先に収める商品の小分けに没頭。

「岐阜の瑞浪から仕入れた鶏を、その日の朝に締めて、氷水で冷やしてから、料理屋さんに配るんだわ」。
新潟出身の父が、名古屋で奉公し、戦中に独立開業。
Nさんは高校を上がると、直ぐに跡を継いだ。
「でも私が22歳の年に、父が亡くなって」。
以来、たった一人で商いを続けた。
「卵も昔は、今より高級品だったでねぇ」。
「そう言えば、ぼくらの遠足の弁当って言ったら、おにぎりと卵焼き」。
「それと、よっぽどじゃないと買って貰えなかった、台湾バナナだったし」。

ついつい我が娘の、彩り豊富な弁当が思い浮かんだ。
何とも切ない溜め息と共に。
このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。
卵焼き、母は砂糖に少し塩を加えて作ってくれました。歳をとってからは卵焼きを食べなくなってしまいました。
家もお母ちゃんの卵焼きは、砂糖が入った甘いものでした。
だからか、表面が焦げていることが多かったものです。
遠足や運動会のお弁当では、真っ先にお母ちゃんの卵焼きに手を付けたものです。
タマゴ料理は大好き
かつ丼、親子丼、たまご丼
どれも同じようなもんだけどねぇ!
ただ!砂糖を入れる卵焼きは納得出来ない所があります。
台湾バナナはブランド品チョット値段もお高目・・
そう言えば岐阜の高富だったか?
皮ごと食べられるバナナが有るとか!
本当に大丈夫?なの~ぉ?
と、思わせるバナナ一回食べてみたい・・
ぼくも酒を飲むようになってから特に、卵焼きのお砂糖入りは箸が進まなくなりましたが、それでもお砂糖入りの卵焼きが無性に食べたくなる時もあります。
昭和半ばの頃のバナナは、病気になって寝込むか、それこそ遠足や運動会と言った時にしか、なかなか食べさせて貰えなかった気がします。