「素描漫遊譚」
「三重県松阪市中町界隈」
「ところでさあ、あのポスター!松阪祇園まつりだって。何か京都に来たみたいだなぁ」。

商店のウインドーに貼られたポスターの前で立ち止まった。
「粋だよね!揃いの法被に、捻じり鉢巻きと玉の汗」。
「世界に負けないくらい頑張ってる日本の原点って、もしかしたらコレかも。老いも若きも貧富の差もなく、分け隔てなく法被一枚を羽織り、同じ時間、同じ重さの神輿を無心で担ぎ上げる。生まれてなんてないけど、もしかしたら敗戦直後の健気に生きた、一途な日本人の姿が現われてるのかも。明日や、ましてや明後日の事なんて誰も思いもしないで、今日を我武者羅に生き抜いた。そんな心の欠片を、祭りの掛け声が紡ぎ上げるんだろうか?」。
「平成元年に再興した、松阪祇園まつり三社みこしの担ぎ手は、年々増加してましてねぇ。今では千人を越えるほど」。
優しそうな笑みを浮かべながら、ぼくの独り言を相手にする紳士。
松阪祇園まつり三社みこし世話人会の会長、松田武朗さん(50)だ。
「まあここじゃあなんですから、中でお茶でも」。
松田さんはそう言うと、こともあろうか恐れ多いあの「和田金」店内へと、我が物顔でズカズカ。

ぼくはただただ気圧され、タジタジと付き従うのがやっと。
「いらっしゃいませ~っ」。
居並ぶ仲居さんに傅かれ、妙にこそばゆいことこの上なし。
「まぁ、お気楽に」。
そう言って、松田さんは2枚の名刺を差し出した。
1枚は世話人会のもの。
しかしもう一方には、和田金の専務とある。
「大変な方じゃないか!」。
またもやタジタジ。
「たまたま生まれた家がここだっただけ」。
でも何で松田さん家なのに『和田金』?
ぼくの素朴な疑問は止め処ない。
何でも初代の松田金兵衛が、東京深川の料亭「和田平」で修業し、その暖簾分けからとか。

「今年の松阪祇園まつりは、7月15日の宵宮に始まり、16日の本日にかけ、町中に『チョーサヤ』の掛け声が響き渡りますんさ」。
明治の中頃に始まった松阪祇園まつりは、八雲神社と松阪神社の神輿が町衆の手によって担ぎ上げられ、熊野街道と伊勢街道の交差する神々詣での追分、日野町交差点を縦横に練り歩いたものだったとか。

「昭和40年頃、魚無川にかかる大橋で、神輿同士が擦れ違えずに睨み合いんなってさ。酒も入っとるしでいつしか喧嘩んなって、片方の神輿と担ぎ手が川底へ転落する事故があったんやさ。それ以来、事故が起きたらかなんで、平成まで車で神輿を曳いとったんさ」。
「魚無川って本当に魚がいないの?」。
「何でですやろ?ちゃんと魚も泳いでますんやけどなぁ」。
平成元年、青年会議所のメンバーだった松田さんらが中心となり、御厨神社を加え三社の神輿を担ぎ出し、以前のように町衆の手で担ぎ練る現在の祇園まつりを復興させた。
但し、飲酒はご法度。
今では岐阜からもバスを連ねて参加者が訪れるほど。
担ぎ手たちの宿には、和田金の幻商品「松阪牛入りそぼろ巻寿司」が差し入れされるとか。

梅雨明けを待ち侘びる神々詣での追分、日野町にこだまする『チョーサヤ』の掛け声。
一説には、「千代に栄え」が転じたものとか。
町衆のささやかな願いは、「チョーサヤ」に託され神々へと続く街道に大きく木霊する。
和田金 松阪市中町
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松阪って
松阪の方には申し訳ないですが
何故か?通り過ぎて・・
伊勢・鳥羽・志摩方面へ行きます。
岐阜もある意味、岐阜市内は通り過ぎて
郡上・下呂・高山方面へ行くもんねぇ ❢
知らないだけで、松坂もイイ所がいっぱいあるんだと思います。
その点、岐阜市ってイイ所あるか?
多分「灯台下暗し」だと思うけど
強いて言えば・・
岐阜市内にヤマもモが住んで居る事くらいかな~ぁ⤴
気ままに途中下車しながらの、のらりくらり旅も良いもんですよーっ。
旅のガイドブックにも載っていないような、名も無い駅には、それなりの新発見がテンコ盛りですよ!
そのためにゃあ、特急電車ってぇ訳にゃー行けませんけどね。
あーあ、のらりくらり旅にでかけたいなーっ。