「素描漫遊譚」
「藤が丘駅界隈」
今回の「素描漫遊譚」は、今月25日(2005.3.27時点)に開幕した、愛・地球博の長久手会場を、人込みに紛れながら、いつもよりはちょっと気忙しく、漫ろ歩いてまいりましょう。
「♪こんにちは、こんにちは、世界の国から~♫」。
1970年3月14日、「人類の進歩と調和」をテーマに、大阪府千里丘陵で大阪万博は月の石と故岡本太郎の太陽の塔を売り物に開幕。

183日間の期間中に、6.421万人を集め閉幕した。
名実共に、昭和最大の万国博覧会であった。
敗戦からたったの四半世紀で、この国の多くの人民は、敵国アメリカを完膚なきまでに受け入れ、一目だけでも月の石を見ようと大行列が連日続いた。

ぼくも一度だけ、父と親戚の父子と共に、日帰りで出かけたものだ。
しかし月の石のアメリカ館など、見ることは元より、行列に加わることすら叶わず、人気の無いパビリオンばかりを狙って、万博に出かけた言い訳を拾い集めるように、だだっぴろい会場を巡った気がする。

ぼくの家は母が、親戚の家では叔母と従兄弟の妹が、それぞれ留守居役を務めた。
今ほど豊ではなかったあの頃、家族全員が連れ立って万博見学など、恐れ多くてそんな余裕など無かった。
それが極々自然な、平均的な日本の家庭ではなかっただろうか?
何を食べ、何を見たのかさえ、もう記憶の欠片すら見当たらない。
もしかすると最初から父もぼくも、一緒に連れて来られなかった母を気遣い、母への土産物ばかりを探し歩いていたのかも知れない。
大阪万博の月の石に代わる物が、永久凍土の中から深い眠りを妨げられ、遥々この地にやってきたマンモスの化石なのか、或いは?
その答えを探すのは、ほかの誰でも無いあなた自身なのです。

今回は一足お先に万博会場と、万博会場へのアクセスの要となる名古屋市名東区の藤が丘駅周辺を、ちょっぴり気ぜわしく漫ろ歩いてまいりましょう。
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1970年大阪万博は行ってないけど
相変わらず、長蛇の列で、ウンザリ感が・・!
愛知県 愛・地球博は、昔の小牧空港に車を駐車して
送迎バスに乗って・・
けどさぁ!
何か?広い芝生の上でゴロンとした。
後は何も覚えてないんです。
まぁ⤴何処もかしこも、人で溢れかえっていた事だけは覚えています。
2025年の大阪万博
後、約3年行きたいような?行きたくないような?
まだまだ世界が今よりもずっと遠かった時代は、国内開催の万博で世界巡りの疑似体験をしたわけなんでしょうねぇ。
ところが海外旅行がお気軽になっちゃってからは、いまさら万博って思っちゃいますねぇ。
「愛・地球博から こんなにも
経ったんですね。」と、言いながら大阪万博を鮮明に覚えているとゆう事は それだけ歳を重ねたとゆう事ですね。
思い出しただけで楽しくなります。
ぼくは愛・地球博って、取材で訪ねただけですねぇー。
そう言えば個人的には一度も出掛けませんでした。
なんせ人混みが苦手ですから!
取材
それは 凄いですね。
ふと 思いたって 「宵火垂る」を見てきました。
いましたよ。一匹だけと思っていたら 数えることが出来るくらい見えてきました。
ああーっ、蛍の季節でしたねぇー!
羨ましい限りです。
大阪万博は2度ほど行きました。一回目は家族で、二回目は兄と兄の友だち、私と私の友だちの子供だけで。でも、何を見て何を食べたのか全くもって覚えていない⤵️
ただただ凄い人だったとしか(@_@;)
そんなもんなんですよねぇー。
みんながみんな行くから、行かないと後ろめたい気になっちゃうんですよねぇー。
今だったら絶対、ぼくはあの大阪万博に行こうとは思わなかったでしょうねぇー。
いっそのこと、次回の大阪万博は、70年の万博をそっくりそのまま再現してみればどうかなあ?
1970年と2025年の3年後では、未来への熱望感そのものにも大きな違いがあるように思えてなりません。
閉塞感に取り囲まれている現代から臨む未来って、やっぱり想像がつきません。
そう考えると、高度成長期の万博と衰退期の万博では自ずから目的が異ならざるを得ませんね。
衰退期の希望ほどムズカシイものはないですね。
これは信念・哲学の分野になるのでしょうか?
ってか、ぼくなんてもう残り時間が灯火の域に達したからなんじゃないでしょうかねぇ。
いまさら抱えきれないほど夢や希望に胸膨らませても、それが叶うまでの残り時間と、気力や体力がそれまでとても持ちこたえられないから、目を背けようとしているのかも知れませんけどねぇ。