毎日新聞「くりぱる」2004.10.31特集掲載②

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「数奇な時代に翻弄された大投手、沢村栄治」

「巨人、大鵬、卵焼き」世代のぼくらには、いくつもの宝物があった。

ロウソクを溶かして塗り込み、友達から召し上げたお気に入りのショウヤ。

写真は参考

太陽の光を呑み込んで、魅惑的な光を放つビー玉。

工事現場に埋もれる、欠けたタイル。

大人には価値など見い出せない、いずれも昭和を生きたぼくらの宝物だった。

中でも野球少年たちの憧れは、歴代巨人の名選手たちの似顔絵が描かれた、大判のショウヤだった。

特にその王様と目されたのが、「背番号14の沢村栄治」。

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野球に精通した父を持つ友達から、神格化された沢村像を聞かされ、すっかりその気になって、沢村のショウヤを手に入れたくて躍起になったものだ。

ご存知、沢村栄治は、三重県伊勢市出身。

京都商業を中退し、昭和9年(1934)17歳で、全米オールスターチームのベーブ・ルースやルー・ゲーリックに挑んだ。

6回までベーブ・ルースの1安打だけに押える好投。

160㌔を越える剛速球と三段に落ちるカーブで、大リーガーをキリキリ舞いさせ9つの三振を奪取。

しかし7回に、ルー・ゲーリックにカーブの曲がり端を叩かれライトスタンドへ。

全日本軍は沢村の好投を援護できず、わずか1点差に泣いた。

その年の暮れ、日本初のプロ野球チーム「大日本東京野球倶楽部(後の巨人軍)」に入団。

しかしまだ、国内には対戦相手のプロ球団が誕生しておらず、翌年は米国へ遠征。

昭和11年(1936)、日本のプロ野球が開幕。

19歳の沢村はエースとして、颯爽とマウンドに上った。

数々の超人的な記録とともに、沢村がいかに偉大で稀有な投手であったか、それを物語るエピソードも数多い。

160㌔を越えるといわれた剛速球を、何とかバントしたら、あれよあれよとレフト前ヒットになったとか。

しかし翌昭和12年(1937)には、日華事変が勃発し、もう一つのバットを銃に持ち替えた日本軍は、抜き足なら無い戦争の泥沼へと歩を進めていった。

2年間のプロ野球シーズンを終えて、年を越した昭和13年(1938)1月、中国へと出征。

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戦地では肩の強さを買われ、最前線でボールを手榴弾に持ち替えて、敵陣へと剛速弾を放り続けた。

昭和15年(1940)に復員し、プロ野球に復帰。

手榴弾の投げすぎが崇り、球速は以前ほどではなかったものの、球史に残る三度目のノーヒットノーランを樹立。

2年間プレーした後、昭和17年(1942)に二度目の召集でパラオへ出征。

翌年復員してマウンドに上ったものの、度重なる戦地での肩の酷使で、沢村から球速はおろかコントロールさえも奪い去っていた。

そして翌年、冒頭の非業の死を遂げる運命へ。

「栄ちゃんは、身体が弱て、親父の勧めで野球をはじめたんやさ。板塀に印付けて、それを目掛けて一生懸命投げ込んだらしいわ」。

昨年8月に86歳の生涯を閉じた、三重県伊勢市の故・山口千万石さんの言葉だ。

千万石さんは、小・中・高と一年先輩に当る、沢村の恋女房。

京都商業時代には、沢村とバッテリーを組み、日米野球までを支えた。

「栄ちゃんの球は、きっついもんで、痛とて痛とて」。

沢村の球は、低めが伸びてホップする。

千万石さんは、グローブのパンヤを抜き、沢村の球を補給し続けた。

最初は掌の内側が腫れ、馬肉で冷やしては、またそのまま球を受け続ける。

すると今度は、掌の内側の腫れが引き、手の甲に腫れが抜けるとか。

そうなれば、もう痛みが消える。

ミットの形に指が曲がった左手は、とにかく固い。

子供たちは、悪さをした後、親父の左手が上らぬよう震えて念じたとか。

沢村のプロ野球入団で、千万石さんにもプロ入りの声がかかった。

しかし祖父の猛烈な反対になす術もなく、沢村との別々の人生へ。

そして千万石さんは、球史にその名を遺した「沢村栄治」の語り部として、27歳の若さでこの世を去った沢村の分まで生き抜いた。

野球一直線に、いつまでも野球少年のままの眼をして。

ぼくは宇治山田駅からほどない、沢村の墓を詣で一輪の花を手向けた。

墓石の上に掲げられたボールに、ジャイアンツのGが誇らしげに刻まれている。

写真は参考

数奇な時代に生きた大投手、沢村栄治。

無謀な国策の果てに、何度となく観衆の見守るマウンドと、血塗られた戦地を行き来しては、観衆の夢を乗せるはずの白球さえ、いわれなき人々の命を奪う手榴弾に持ち替えた。

「沢村さん。辛かったよね。あなたの類稀な右肩は、人々を喜ばせるものであって、人を哀しみの淵に追いやるものなんかじゃないよ」。

敵陣に一つ、また一つと、手榴弾を放り込みながら、もしかしたら沢村は、自分の野球生命と人生を引替えにしていったのかも知れない。

あなたの死から今年でちょうど60年。

日米野球の力の差は、ほとんど互角といっても過言ではない時代が訪れました。

過去の禍根は過ぎた年月の中に風化させ、日米それぞれの選手の活躍ぶりを、天国でゆっくりご覧下さい。

ぼくは墓前で頭を垂れた。

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投稿者: okadaminoru

1957年名古屋市生まれ。名古屋在住。 岐阜県飛騨市観光プロモーション大使、しがない物書き、時代遅れのシンガーソングライター。趣味は、冷蔵庫の残り物で編み出す、究極のエコ「残り物クッキング」。 <著書> 「カカポのてがみ(毎日新聞社刊)」「百人の天職一芸(風媒社刊)」「東海の天職一芸(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸2(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸3(ゆいぽおと刊)」「長良川鉄道ゆるり旅(ゆいぽおと刊)」

「毎日新聞「くりぱる」2004.10.31特集掲載②」への8件のフィードバック

  1. 沢村栄治選手の背番号14番は巨人軍の永久欠番ですが
    後にも先にも、永久欠番を付けた選手は一人しかいません ❢
    しかも2回も・・16番と3番
    そう⤴我らの「巨人の星」星飛雄馬選手です。
    確か?中学時代、アニメの放映が30分でした。
    宿敵 ❢花形満と対戦した時、一球も投げずに30分番組が終わった事がありました。
    引っ張りすぎやろ~ぉ⤴と ❢ 翌朝、よく学校で話をしたもんです。
    ♬思い込んだら試練の道を行くが男のど根性♬
    懐かし~ぃねぇ⤴

    1. それにしても、物凄い記憶力じゃないですかぁ!
      落ち武者殿だからって、ちょっと侮っていたことが恥ずかしいじゃないですか!
      でもそれにしても天晴れな記憶力に脱毛!しゃなかった、脱帽!
      でも帽子とっちゃったら、やっぱり・・・。

  2. ここにも戦争の爪痕が
    辛いですね
    なぜ、人は戦さをするのか
    権力で市民が巻き込まれる
    あー、
    今の現状が辛い

    と、思いながら
    戦争記念館へ館員ボランティアで行くわたし

    1. まんちゃんのその思いを、戦争記念館にご来館になられる方と共有したいよねぇ。

      1. 今日は54名
        新記録つくりました
        わたしも館内説明しました
        したら
        真剣にみてくれました
        来月は
        3日、8日
        に参加します

  3. 野球は興味無かったけど、テレビアニメ『巨人の星』や『タッチ』は良く見てましたよ。飛雄馬のお父ちゃんが、ちゃぶ台をひっくり返す度に「あ〜、なんて事を!!せっかく作ったのにお姉ちゃんが可愛そう」とか「片付けるの大変じゃん!」と、そんな事を気にしながら見てたな(笑)

    1. さすが女性は、そういう目線でご覧になっていたんですねぇ。
      でも現実には、仰る通り、お姉ちゃんが浮かばれないですよねぇ。

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