毎日新聞「くりぱる」2004.10.31特集掲載①

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「沢村栄治の恋女房」

さあいよいよ日米野球の開幕だ~っ!

今年は日米球界も、様々な話題に満ち溢れていた。

それだけに、今回の日米野球には、また格別の趣がある。

今でこそイチローやゴジラ松井の活躍で、日米の野球技術の差はそれほど驚きを感じるものではなくなった。

しかし今から70年前の昭和9年に、二度目の来日を果した、ベーブ・ルースやルー・ゲーリックという名立たる大リーガーを率いる、全米オールスターチーム。

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対するは、日本プロ野球が産声を上げる2年前、東京六大学の選手らで構成された全日本軍。

全国を転戦し、全米軍が18試合を全勝。

しかし唯一、静岡県草薙球場で迎えた第10戦。

全日本軍は0対1で惜敗したものの、全米軍相手に6回まで、ベーブ・ルースの1安打だけに押える好投を見せた少年がいた。

三重県伊勢市出身、京都商業中退の沢村栄治17歳だった。

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左足を高く跳ね上げ、豪快なフォームで繰り出す160㌔を超えるといわれた剛速球と、三段に落ちるカーブで、大リーガーから見事9つの三振を奪取。

しかし7回、ルー・ゲーリックが沢村のカーブの曲がり端を叩き、ライトスタンドに本塁打を浴び、奇しくも1点の僅差で全米軍が面目を保った。

翌年沢村は、日本初のプロ野球チーム「大日本東京野球倶楽部(後の巨人軍)」入り。

しかし対戦相手となるプロ球団は、まだ国内に誕生しておらず、米国遠征の途へ。

128日間で109試合をこなし、75勝を上げた。

剛速球と三段に落ちるカーブを武器に、沢村は三振の山を築いていった。

そんな沢村に、大リーグはピッツバーグ・パイレーツのスカウトが注目。

サインを求めるファンを装い、大リーグ入りの契約書を差し出したとか。

寸でのところで同行者が気付き、沢村にサインを拒否させたとも。

しかし今想えば、その時もし沢村が知らぬとは言えサインをしていたら・・・。

その10年後の昭和19年(1944)12月2日、3度目の出征でフィリピンに向かう、沢村を載せた軍艦が、台湾沖で米艦隊の魚雷で撃沈。

沢村が浴びた、最後のデッドボールとなった。

「『栄ちゃんの球は、きっついもんで、痛とて痛とて言葉で言えんくらいや』って、たまに想い出しては、この子らによう話して聞かせよった」。

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三重県伊勢市の山口ふ志子さん(78)は、壁に掲げられた夫の遺影に眼をやった。

満面の笑みを浮かべる遺影の主は、京都商業で沢村栄治とバッテリーを組んだ、故・山口千万石(せんまんごく)さんだ。

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沢村が冒頭の日米野球で活躍する寸前まで、沢村の剛球を左手でしっかと受け止め続けた。

大日本東京野球倶楽部は、沢村の恋女房でもある千万石さんにもプロ入りを勧めたが、祖父が頑として許可せずプロ入りを断念。

別々の道へと。

千万石さんは高校を卒業後、大丸デパートに勤務し、後に満州へと渡った。

昭和24年(1949)、シベリア抑留から解放され帰国。

大日本紡績(現ユニチカ)へ入社。

「最初は野暮ったくて、嫌味な感じの人やった。私も引揚者やっていう偏見で見てしまって。でも話してみると、野球のことばっかりやさ。まるで野球少年のまんま大人んなったみたい」。

昭和30年(1955)に、千万石さんはふ志子さんと結婚し、二人の男子を設けた。

「沢村さんの球は、低めが伸びてホップするって。親父はグローブのパンヤを抜いて、沢村さんの球を受け取ったらしい。最初に掌の内側が腫れて、痛とて馬肉で冷やして、またそのまま球を受け続けとると、今度は手の甲に腫れが抜けるらしいんさ。そうなるともう痛となんらしいんさ。とにかく左手が固とて、悪いことして怒られて、親父の左手が上ると震とたもんやさ」。

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二男の茂樹さん(46)が、古い写真を開いてつぶやいた。

指がまるでミットのような形に曲がっている。

「親父は、とにかく野球がすべてやった。どっこも連れってもうたことないし。一度だけやわ。甲子園へ母校の応援に連れてかれたんが」。

茂樹さんは、愚痴のような口調で、しかし父を誇らし気に語った。

千万石さんは、平成6年に86歳の生涯を閉じた。

まるで27歳という若さで散った、沢村栄治の恋女房として、彼の分まで野球一筋に生き抜くように。

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投稿者: okadaminoru

1957年名古屋市生まれ。名古屋在住。 岐阜県飛騨市観光プロモーション大使、しがない物書き、時代遅れのシンガーソングライター。趣味は、冷蔵庫の残り物で編み出す、究極のエコ「残り物クッキング」。 <著書> 「カカポのてがみ(毎日新聞社刊)」「百人の天職一芸(風媒社刊)」「東海の天職一芸(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸2(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸3(ゆいぽおと刊)」「長良川鉄道ゆるり旅(ゆいぽおと刊)」

「毎日新聞「くりぱる」2004.10.31特集掲載①」への4件のフィードバック

  1. 昨年の東京オリンピック(野球)で
    日本が金メダルを取った・・
    ハラハラ!ドキドキ!した。
    故沢村栄治選手は凄かった!と、聞く
    当時160㌔のスピードボールを投げたなんて、
    その投球を見た人は、さぞかしビックリした事でしょう。
    大谷選手、佐々木朗希選手・・
    数十年に一度、凄い選手が出てくるもんです。
    本当は、私も数十年に一度の凄い奴なんです。
    この事は、くれぐれも他言無用でお願いします。

    1. 大谷選手も佐々木朗希選手も、共に物凄い逸材ですよねぇ。
      コロナだプーチンだのと、暗いニュースが蔓延る中、唯一の救いですよねぇ。

  2. 野球の事が あまりわからない私でも、毎日 テレビや新聞紙面を賑わしているから、又 野球ブームが
    『キタ 〰〰 』んでしょうね 
    (*˘︶˘*).。*♡

    『ビッグボス』 『オオタニさん』『佐々木朗希君』
    そして 女子の野球選手までも❣️
     

    将来 野球選手を目指す子供達が 又 増えるかな~ (。•̀ᴗ-)✧

    1. 確かにぼくらの少年時代は、挙って野球少年ばかりで、他に選択の余地すらなかったですものねぇ。
      TVのニュースで起こし太鼓を拝見しました。
      やっぱりまた出掛けたくなっちゃいますねぇ。

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