「素描漫遊譚」
「社会人野球の監督だぁ!」
「ゲームセット」。
ベンチからグランドに一歩踏み出し、帽子を取った白髪の背番号30番は、深々と頭を垂れた。
愛知県東海市の硬式野球チーム・東海REX監督のY.Tさん(66)だ。

「グランドに一歩入ったら、そこは修行の場だでな。礼に始まり礼に終わる」。
日本で3番目に高齢な日本選手権優勝監督は、白い歯を見せて穏やかに笑った。
この東海REXは、旧新日鉄社会人チームであったが、九州八幡製鉄の野球部が廃部に追い込まれる中、企業・自治体・民間の協力を得て、昨年1月に社会人広域チームとして生まれ変わった。

「たった15人だけのヘボチーム、端から引き受ける気なんてなかったて」。
しかしもう一度ユニフォームを着たい。
そんな想いが、グランドに半世紀を賭けた男の魂を衝き動かした。
「やっぱりユニフォーム着ると、歳忘れるねえ。まあ俺にとっては、これがスーツだでな。それに子供たちから、エネルギー貰らっとるしな」。
終戦後、疎開先から名古屋市天白区の生家に戻った監督は、布を繋ぎ合せて作った粗末な手袋型のグローブで「野球ゴッコ」に高じた。
「野球馬鹿の虫があったんだろうな」。
小学4年の時、叔父から譲り受けた古い皮のグローブを手に、野球部へ入部。
半世紀以上の野球人生が、プレイボールとなった。
中学3年の2学期、東邦高校野球部監督の目に止まり、東邦中学に編入し公式野球部へ。
甲子園の晴れ舞台を目指し、名門中京商業とも互角に渡り合った。
その後、社会人野球の製鉄釜石に所属し、グランドに数々の名プレーを刻み込んだ。
25歳の年に、幼馴染のK子さん(67)を妻に迎え、釜石での新婚生活が始まった。
翌年には長女が誕生。
昭和41年(1976)、生後間もない次女を伴い、東海市の新日鉄社会人チームに移籍し、コーチ兼キャプテンに就任した。

30歳の若さで監督へ。
「息子だったらなあ。キャッチボームでも出来たんだろうが」。
野球一筋に打ち込むあまり、二人の娘を何処へも連れて行く暇さえない。
幼い娘達の元へは、義理の弟がよく遊びに訪れていた。
しかし監督は朝から晩まで野球。
「あの頃、よう女房が嘆いとった。『あそこの旦那は、野球やっとるわりに小さな人だね』と、近所で噂されて困ると」。
しかしそうは言うものの、半世紀以上に渡り夫のユニフォーム姿を支えた妻は、家庭と言うベンチで家族の生活に采配を振るった。
「歳喰う毎に不思議なもんで、段々女房孝行するようになってきた」。
日焼け顔が思わず綻んだ。
「4年生になる孫がおるんだが、これがサッカー少年でな。やっぱり今時の子だでなあ」。
寂しげな言葉を、監督はポトリと落とした。
「でもこの前、グローブを持って遊びに来て『お爺ちゃんキャッチボール教えて』と。娘に吹き込まれたんだろうか。ちょっとだけスナップ効かせてやったら、『お爺ちゃん凄い』だと。これまでの野球人生の中でも、一番嬉しいひと時だったかな」。凄みを放つ強面の顔が、一瞬好々爺の表情に挿げ変わった。

無心でひたすら白球を追いかけた55年の歳月。野球人生に何も悔いはない。内野の要、ショートを守り抜いた監督のグローブは、髪に白髪が目立ち始めた初老の妻の心を、今はしっかりと受け止めている。
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野球 ❢
好きやな~ぁ⤴
春の選抜高校野球、始まるねぇ❕
昔、見ていた時は、監督を見ると大人だな~ぁ⤴
と、見ていたけど、今じゃ❕殆ど、わしより年下❕
まぁ⤴当たり前だけどねぇ
人生一度はやってみたいひとつに高校野球の監督
勝利した時は「選手みんなのお蔭で勝つ事が出来た、選手諸君、ありがとう ❢」
負けた時には「私、監督の全責任、子供達は本当に頑張ってくれた すまん ❢」
こう インタビューで答えるねぇ ❢
カッコええやろぅ ❢
確かに仰る通り!
お互い思えば遠くへ来ちゃったものですよねぇ。
男性の方が孫にはデレデレメロメロのような気がします。以前「お金が無いと孫も寄ってこないから小金を持った可愛いおばあちゃんにならないとねぇ」と友だちと話してた事があったなぁwww
孫かぁ!
ぼくも孫とやらに逢えたらいいですねぇ。
ちょっとどう接して良いか、それが気がかりですが!