Gifu Poem「ぎふ清流国体と鮎菓子」と「昭和懐古奇譚」(2012.09新聞掲載)

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いただきものの鮎菓子を ちょいとくすねて駆け出して

トーチのように捧げ持ちゃ まるで気分は(きょ)()ランナー

沿道埋めた人だかり 日の丸揺れて有頂天

どーも不思議と振り返りゃ 迫り来る来る絆の灯

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「大判メンコ」

「おおっ、とうとう出たか!大判の沢村栄治」。

子どもの頃の、メンコ勝負の大一番。

戦前の巨人軍。

永久欠番となった背番号14を背負い、マウンドで大きく振り被る、大投手沢村栄治の雄姿が描かれた大判のメンコだ。

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誰もが喉から手が出るほどの一枚。

近所でもその一枚を持っていたのは、たったの一人きり。

だから彼がいつでも標的に。

手持ちのメンコが無くなれば、彼は仕方なく最後の切り札に、沢村の大判メンコで参戦する。

だがさすがに名うての大判。

地べたに軽く叩きつけるだけで、団扇で仰いだようにヘナチョコメンコが、あっという間に2~3枚も捲れ返る始末。

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とは言え、昭和半ば生まれのぼくらが、戦前の沢村を実際に知るはずもない。

ぼくらにとってのヒーローは、王・長島が相場。

しかし伝説の剛速球投手沢村栄治だけは、皆親から聞かされていたのか、ぼくらの世代にも君臨し続けていた。

以前取材で、三重県伊勢市にある沢村栄治の墓前を詣でた。

一際異彩を放つ、硬球ボールを模った墓石。

そこには、彼が命がけで背負い通した背番号の14と、巨人軍のGが刻まれていた。

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この時初めて沢村が伊勢出身と知り、子どもの頃の虚像は一気に等身大に。

中・高と沢村の球を捕り続けた女房役、捕手の故山口千万石さんの妻と息子を訪ねたのだ。

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話が進むうちに、愚かな戦争に翻弄され続け、27歳の若さで散った沢村の数奇な運命を知ることとなった。

沢村栄治は大正6年、宇治山田市(現、伊勢市)生まれ。

京都商業を経て、プロ野球チーム「大日本東京野球倶楽部」(後の東京巨人軍、現・読売ジャイアンツ)に入団。

昭和11年から8年のプロ野球人生で、3度ものノーヒットノーランを達成。

しかし戦局は日増しに悪化。

3度も赤紙が舞い込み戦地へ。

球場の観客を沸かせた白球を、忌まわしい手榴弾に持ち替えて。

沢村はその強肩とコントロールの良さを買われ、常に敵の最前線へと送り込まれた。

球場の歓喜の声は、いつしか戦地の阿鼻叫喚に。

どんな思いで沢村は、敵陣へと手榴弾を放り続けたのだろう。

手榴弾の投げ過ぎで肩を壊し、戦闘の負傷で2度目の復員後にマウンドへ復帰するものの、既に球威もコントロールも失せていた。

そして昭和19年12月2日、敵地へと向かう輸送船が屋久島沖西方で、米潜水艦に撃沈され還らぬ人に。

わずかたった27歳の生涯だった。

・・・沢村さん。辛かったよね。あなたの類稀な右肩は、人々を歓喜させるものであっても、決して人を哀しみの淵に追いやるものじゃなかったはず。でも天国で今は、ベイ・ブルースやルー・ゲーリックを相手に、自慢の剛速球を唸らせ、きりきり舞いさせてることでしょうね・・・

沢村の墓前に佇むと、思わずそんな言葉が胸に去来した。

またお彼岸にでも足を延ばしてみるとしよう。

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投稿者: okadaminoru

1957年名古屋市生まれ。名古屋在住。 岐阜県飛騨市観光プロモーション大使、しがない物書き、時代遅れのシンガーソングライター。趣味は、冷蔵庫の残り物で編み出す、究極のエコ「残り物クッキング」。 <著書> 「カカポのてがみ(毎日新聞社刊)」「百人の天職一芸(風媒社刊)」「東海の天職一芸(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸2(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸3(ゆいぽおと刊)」「長良川鉄道ゆるり旅(ゆいぽおと刊)」

「Gifu Poem「ぎふ清流国体と鮎菓子」と「昭和懐古奇譚」(2012.09新聞掲載)」への6件のフィードバック

  1. メンコ懐かしい!
    けど、私の地元、梅林校下では「パンコ」って呼んでました。
    自称パンコのプロの悪ガキが居て
    パンコがひっくり返らないように表面にロウソクのロウを塗って、
    少し重たくしてました。
    でも、結局、悪ガキ共全員が真似してやるようになったので
    中々勝負がつかないので、ロウを塗るのが禁止になりました。
    昭和の悪ガキ共の考える事って面白いですねぇ!

    1. ありましたありました。
      蝋を溶かしてベッタリとメンコに貼り付けていた子がいたものでした。
      子どもたちの情報交換量って、とんでもなく発達していたんですねぇ。

  2. 今朝、何気なくベランダをみていたら、ギョ!!ギョ!!ギョッ!!物干し竿に鳩が、停まっているだけじゃなくて優雅に歩いていたのです。驚いたけど鳩は平和の象徴⤴️と言いますから、平穏な日々が少しずつ戻って来る前触れかもねv(´∀`*v)

    1. 若い頃、東京原宿交差点に面したビルのプロダクションに籍を置いていたことがあり、ギターを爪弾きながら曲を作っている時、良くベランダを眺めていたものでした。
      そんなある日。
      雛の囀る声が聞こえた気がして、大きな窓を開けてベランダに出るとナント!
      鳩が雛を産んで子育ての真っ最中でした。
      大都会のマン真ん中でも生の営みを感じて心が和んだ記憶があります。

  3. 27歳 それも戦争で…
    もっと投げたかったでしょうね。
    先日ドキュメント番組を見ました。
    戦地から400通もの絵手紙を家族に送っていたという内容です。
    家族を守るために戦地へ。
    戦場に行かなければならなかった方も 待っていた方も 生み出すものなど何もない。壊れてしまうだけ。
    二度としてはいけない。

    1. 仰る通りだとぼくも思います。
      最期は呆けてしまった父でしたが、最後の最後まで戦地での出来事は、一言も口にしなかったですもの。
      きっと口にすることさえ憚られたんでしょうねぇ。
      一番輝けるはずの青春を戦地に置き忘れて来てしまったんでしょうから。

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