

神が御座すか四方の山 隠れ座敷の神岡に
宇宙の彼方の星便り カミオカンデを訪うた
清けし瀬音山田川 船津湊の軒先に
迎え火燈りゃご先祖も 宇宙の果てから里帰り

「水風呂で競泳」
「ピッピッピッピピーッ テイマー バーン!」。
母は何ともいいころかげんに、テレビから聞きかじったものか?ホイットスルのピピーッに続き、「take your marks=位置に付いて用意」がテイマー。
最後にピストル音のバーンと、競泳のスタートの合図を、ぼくにそう教え込んだものだ。
「さあ一斉にスタートしました。東京五輪、競泳100m自由形。あっとここで日本のオカダが、アメリカのショランダーを、頭一つ引き離してリード」。

ぼくは風呂桶の中で水中眼鏡をかけ、東京五輪の競泳遊びに夢中だった。
母に教わったへなちょこ英語で、スタートの合図を真似、風呂桶の中を泳ぎ周りながら、実況中継のアナウンサーまで、一人三役をこなしたものだ。
しかし我が家の風呂桶は、大邸宅の大きなバスタブとは異なり、ほんの一掻きでもしようものなら、たちまち風呂桶の縁にぶち当たってしまう。

それでも真夏の水風呂遊びは、最高に愉しかった。
東京オリンピックが開催されたのは、昭和39年。
ぼくは小学1年生だった。
では何故、記憶も曖昧な年端も行かぬ小学1年生が、その年のオリンピックのことを覚えているのか。
それは取りも直さず、母の影響に他ならない。
ことあるたびに母は、東京五輪の競泳で4つの金メダルを獲得し、3つの世界新記録という快挙を打ち立てた、アメリカのドン・ショランダーをこき下ろしたものだ。
「まあ許せん!ヤンキー野郎が、金メダルを根こそぎ持ち帰ってまって!」と。
敗戦の辛苦を味わった母にすれば、未だ憎っくき鬼畜米英そのものだったのだろう。
当時の我が家は、二軒棟続きの市営住宅住まい。
6畳と4畳半の二部屋に、小さなお勝手場だけ。
それでもちっぽけな庭が付いていたから、どこの家も勝手に子ども部屋を増築したり風呂場を設けたり。
我が家もその口で、父が斜向かいのご隠居や、釣り仲間の手を借り、日曜大工でせっせと風呂場を作り上げた。
内風呂が完成したばかりの、夏休みのある日。
母が買い物に出かける際、「お風呂に水張っといてよ」と、言いつけられたのをこれ幸いに、さっそく水中眼鏡をかけて東京五輪の競泳遊びに興じる。
ところがしばらくすると、釣竿を片手に父が汗だくで帰って来た。
「おおっ、わしもひとっ風呂浴びるとするか」と、洗面器で掛け湯ならぬ掛け水を威勢よく浴びた!
「おおっ!冷たっ!」。
ぼくはてっきり叱られるかと身構えた。
「おっ、冷やっこてなかなかええもんや」と、父は満更でもなさそう。
それから二人で素潜りの長さを競ったり、両手で飛ばす水鉄砲を教わったり。
しばらくすると母が買い物から帰って来た。

「なんやの。あんたら水風呂で盛り上がって。それやったらついでに、これも冷やしといて」と、スイカを一玉投げ入れたから始末に負えやしない。

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笹巻羊羹
うん~⤴聞き捨てならない四文字!
しかし見た事も聞いた事もない!
以前JR高島屋へ行った時に店名は分かりませんが
水羊羹を買ってきました、美味しかった!
小豆って大好き!
羊羹も餡子も大好きです。
しかし落ち武者殿の様にのべつまくなしってぇわけにゃあまいりませんが!
甘い物ってホッコリしますものねぇ。
家は、水を張ったタライにすいかを入れてましたが、今考えると冷えてたのかなぁ。
確かに冷蔵庫の冷え方とは違って、生ぬるかったきがしますよねぇ。
でもだからこそ、お腹も冷やし過ぎずに良かったのかもしれませんけどねぇ。
息子達が小学生の頃 夏休みになると ほぼ毎日 水風呂で遊ばせてました( ◠‿◠ )
養護学校でプールに入るものの それだけでは長い夏休みを消化するのが難しく かと言って市営や公共のプールに二人を連れて行くと ほぼ100%迷子に…。
ならば水風呂でしょう⁈
めっちゃ楽しんでたし 私も休憩が出来て一石二鳥(笑)
可愛かったなぁ〜
子どもの頃って、いつまでもいつまでも水の中に入っていられたものです。
ぼくも三重の従兄妹のお姉ちゃんと一緒に、裏の櫛田川の清流でよく泳いだものです。
ちっとも川から出ようとしないから、お姉ちゃんに「唇が紫色になっとるから、はようあがっといなぁ!」って怒られたものです。