昭和半ばの男坊主どもは、見渡す限り野球少年だった。
帰宅すると玄関にランドセルを放り投げ、広場へと繰り出した。
まさに「巨人、大鵬、玉子焼き」時代。

満足な野球道具等無い。
それでもブニョブニョのゴム毬1個と、友の一人が親にせがんでやっと買って貰った、安物のバット1本さえあれば、直ぐにプレーボール。
誰もが皆、憧れのプロ野球選手になり切って、バッターボックスに入る時も、守備に就く時も、憧れの選手の名と背番号を、口々に名乗り合う。

もっぱら当時の趨勢は、ジャイアンツの王や長島。
従って同じチームには、何人もの王や長島が犇めいた。
ぼくはと言えば、もちろん背番号「1」。

だが王ではない。
職人のような華麗なグラブ捌きから、燻し銀の小兵と渾名された、ドラゴンズの名二塁手高木守道である。
なにゆえ憧れの選手が高木だったかと言えば、近所にいた熱血ファンのオッチャンの影響。
「高木の見事なグラブ捌きにゃあ、本当に惚れ惚れする。しかし『燻し銀の小兵、高木守道』とは、よう言うたもんだ」と、大層な称えよう。
大人たちの絶賛振りにすっかり絆され、ぼくは「背番号1。ドラゴンズ高木守道」と、大声で名乗ったものだ。

ある日の打席。
バットを思い切り振り抜くと、出会い頭にジャストミート。
打球は広場の向こう側の、川の中へと消えた。
文句無しの場外ホームランである。
だが試合は敢え無く中断。
敵も味方も入り乱れ、ボール探しにやっきになった。
なぜならボールはそれ1個きり。
何としても探し出さねば、試合が続行出来ない。
川面に浮かんだボールを、竹竿の先で手繰り寄せようと何度も試みる。
しかしその都度、ボールはスルリと身を躱す。
ついに日暮れになっても見付けられず、日没試合終了。
誰もが夢見たプロ野球選手への憧憬。
まるで川面で身を躱した儚いボールのように、どんなに足掻いて見たところで、容易に夢に手は届きはしなかった。
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誰が聖火台に点火するのかを見たくて、リアルタイムでオリンピックの開会式をテレビで見ました(長かったぁ!!)
聖火を絆ぐ人たちの中に、長嶋茂雄さん、王貞治さん、松井秀喜さんの三人の登場にビックリ!松井さんに支えられてしっかり歩く長嶋茂雄さんの姿に、ほろり。
ぼくは五輪にまったく興味がわかなくって、Newsやネットの記事のヘッドラインだけ見ているような状態です。
長嶋さんのあのおいたわしいお姿は、見世物にすべきじゃないかも知れませんよねぇ。
昭和を彩った永遠のミスタージャイアンツなんですから。
子供達の草野球!
懐かしいねぇ・・
誰が?呼ぶって事ないけど、近所の悪ガキ共が自然に集まって
人数なんて、せいぜい5~6人しか集まらないので
グーとパーのジャンケンで敵味方を選んで
誰が?ルールを作ったのか?
1塁と3塁の三角ベースでキャッチャーは無し
負けると悔しくて何回も何回も延長戦!
今思うと、物凄く楽しかった!
昭和の男坊主は、必ずと言っていいほど、皆が皆通った道でしたものねぇ。
死ぬまでにもう一度やって見たいって思いますが、一塁までゼーゼー言わせながら、必死に走らなきゃならないかも知れませんよねぇ。
姉は どうしてか??
昔っから 大鵬、巨人が大好き!
部屋には 少年ジャンプやサンデーが
(。•̀ᴗ-)✧
巨人が負けると ご機嫌ナナメ !!
今も現役 毎週 ソフトボールでストレス発散 (•‿•)
東京オリンピック 開会式でのトーチリレー での 王さんと長嶋さん ステキ 輝いてましたね (◠‿・)—☆
うるうるしちゃいました •́ ‿ ,•̀
元気もいただきました ❣️
それにしてもお姉さまはアクティブですねぇ。
上野投手も真っ青じゃないですか?
中学生になると 当時流行っていた漫画『エースをねらえ!』に憧れて 即テニス部に。憧れの先輩にボールを手渡す時は もう嬉しくって( ◠‿◠ )
同じグラウンドでは 野球部の同級生(片想い)がランニングしてたりして。
ドキドキしながらも ボールを追いかけてラケットを振る毎日…
青春だ〜!
青春時代はご多感だったんですねぇ。
でもそれが青春の青春たる証ですものね。
当時、男子は皆野球でした。テレビの「巨人の星」の影響、大でした。小学校では野球部の人気が凄くて入れなくて、ソフトボール部に入っていました。あと、ニワトリの世話をする、今で言うところの「いきものがかり」もやった記憶があります。
そうでしたよねぇ。
ぼくも小学校の野球部に入りたかったのに、とてもとても希望者が多すぎて、入れなかったものです。
ぼくもウサギやニワトリの飼育係を拝命したことがありました。