昭和がらくた文庫17話(2012.4.26新聞掲載)~「五味分かつ夫婦善哉」

両親が夫婦(めおと)となった馴れ初めを、あなたはどこまでご存知だろう?

まだ小学生だったぼくは、祝言を挙げた日くらいしか、聞き覚えがなかった。

だからいつ知り合い、どんなプロポーズの言葉を交わしたのか、知る由もなかった。

それはぼくの、結婚式前日のことだ。

父の高鼾を余所に、母が徐に問わず語りで、父との馴れ初めを語り出した。

母はコップ半分のビールで、いつも以上の饒舌振り。

写真は参考

その年、末期癌を患い、全ての胃を摘出したにも関わらず、今夜だけは飲むと言い張った。

「もうこの人なんか、一銭も持っとらんかったんやよ。だから結婚式から新婚旅行まで、みんな私の貯金を切り崩して」。

母は初めて「お父さん」とは呼ばず、「この人」と呼んだ。

自らも「お母さん」ではなく「私」と。

敢えてその日を境に、初めて息子を男として扱ったのだ。

父は戦地から復員すると、口減らしを兼ね跡取りの無い家へ婿入り。

二人の子を成し、跡取りが誕生するや否や、無一文のまま姑にいびり出されたと言う。

一方母は、戦時中の怪我が元で、片脚を引き摺る障害を抱えていた。

だから嫁の貰い手は無いと諦め、紡績工場の仕事に没頭。

写真は参考

そんな二人の仲を取り持ったのが、母の上司でもあった、父の従兄弟だったとか。

母は自らの死期を、既に悟っていたのだろう。

だから結婚前夜に、どうしても伝え置きたかったに違いない。

ぼくの両親である前に、一組の夫婦(めおと)であった追憶の日々を。

『一つの椀で五味を知り 泣いて笑って喧嘩して 善哉なれや夫婦(めおと)旅』

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

投稿者: okadaminoru

1957年名古屋市生まれ。名古屋在住。 岐阜県飛騨市観光プロモーション大使、しがない物書き、時代遅れのシンガーソングライター。趣味は、冷蔵庫の残り物で編み出す、究極のエコ「残り物クッキング」。 <著書> 「カカポのてがみ(毎日新聞社刊)」「百人の天職一芸(風媒社刊)」「東海の天職一芸(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸2(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸3(ゆいぽおと刊)」「長良川鉄道ゆるり旅(ゆいぽおと刊)」

「昭和がらくた文庫17話(2012.4.26新聞掲載)~「五味分かつ夫婦善哉」」への6件のフィードバック

  1. 私の両親の馴れ初め?
    聞いた事がない、考えた事もなかった!
    今思うと聞いとけば良かった。
    でも、何か?こっぱずかしくって中々聞けないよねぇ!
    五味ってさ~ぁ!
    甘味、塩味、酸味、苦味、これは何となく分かる気がするけど?
    うま味って、中々難しいと思う
    皆さん生まれた環境が違うしさ~ぁ⤴
    なんやろう?
    素材の味?
    お子ちゃまの舌には分からんなぁ!

    1. 落ち武者殿のご両親にも、きっと素敵なラブロマンスがあったんでしょうなぁ!

  2. 馴れ初め…
    母親から当時の話を何度か聞かされた事があるけど ん〜 途中から耳に入ってこないように意識的にシャットダウンしてました(笑)。あくまでも母親だけの言い分でしたからね。(複雑)
    今の私にとっては 昔の断片的な記憶の中の両親の姿が懐かしいのだ。

    1. そうですよねぇ。
      誰にも心の片隅に仕舞い込んでいる事ってあるものなんでしょうねぇ。

  3. 母親は父に一途だったと思います。父は、後年『俺を走って追っかけてきた』というと、母親はむきになって反論していましたが。母親は2011年春に認知症と診断され、徐々にすすみ6年前に特養へ。父は元気だったものの、認知症をやはり患い、先月身罷りました。職場結婚だったふたり。確かめるのも野暮であり両親健在のときは、どうでもよいことと思っていました。オカダさんのご両親さまのことを伺い、少し知っておいても良かったかな、いや永遠の秘密ってものもいいなあ、と思う私がいます。

    1. なかなか両親が健在な頃って、なんだかこっぱずかしさの方が勝って、両親の馴れ初めなんて聞けないものですよねぇ。
      でもぼくも、もっともっと聞いておけばよかったと、今更ながら悔やまれてなりません。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です