昭和がらくた文庫6話(2011.7.21新聞掲載)~「魔法の茶の間」

昭和の半ば。

欧米人は日本の住宅事情を、「ウサギ小屋だ」と揶揄。

だが当時の日本人は、どんなに蔑まれようと、見事に高度成長を成し遂げた。

我が家の両親もその時代を生き、社会の底を這うようにぼくを育て上げた。

恐らく父母の唯一の愉しみは、家族で寄り添う一時だったろう。

6畳一間のアパート。

写真は参考

台所も炊事場も便所も共同。

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風呂は銭湯通い。

折り畳み式の丸い卓袱台を囲み、倹しい食事を分け合った。

夜も更ければ、卓袱台を折り畳み、煎餅布団を並べた寝床へと早変わり。

それが昭和半ばの高度成長を影で支えた、「魔法の茶の間」である。

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寝食も苦楽も綯い交ぜに、それでも明日を信じて夢見た家族の団欒。

昭和も30年代に入ると、三種の神器が登場。

やがて我が家にも、月賦で手に入れた白黒テレビがやって来た。

「じゃあ、スイッチ入れますで」。

電気屋のオヤジの声に、茶の間で正座しブラウン管に目を凝らす。

ザザーッという音と共に走査線が走り、ゆっくりと映像が浮かび上がる。

ついに母が感極まり柏手を打った。

白黒テレビの放送から58年。

カラー化からデジタルの世へ。

画像の鮮明さには、まったくもって目を瞠る。

だが豊かさの影で、失ったものも数多い。

茶の間に卓袱台、そして何よりテレビを取り巻く家族の姿だ。

果たしてそれは喜ぶべきか?

茶の間が家族の居場所だった、そんな時代を生きたぼくには到底分からぬ。

今よりずっと貧しかったあの時代。

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だが茶の間にはいつも、家族の笑い声が溢れ返っていた。

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投稿者: okadaminoru

1957年名古屋市生まれ。名古屋在住。 岐阜県飛騨市観光プロモーション大使、しがない物書き、時代遅れのシンガーソングライター。趣味は、冷蔵庫の残り物で編み出す、究極のエコ「残り物クッキング」。 <著書> 「カカポのてがみ(毎日新聞社刊)」「百人の天職一芸(風媒社刊)」「東海の天職一芸(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸2(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸3(ゆいぽおと刊)」「長良川鉄道ゆるり旅(ゆいぽおと刊)」

「昭和がらくた文庫6話(2011.7.21新聞掲載)~「魔法の茶の間」」への8件のフィードバック

  1. ハナ垂れっちの頃
    勿論!昭和30年代
    父親が仕事から帰って来るくると、父親の自転車の後ろに乗って
    銭湯へ行くのが日課だった。
    テレビのチャンネル権は父親で、プロ野球ナイター、プロレス
    見たい番組があっても見られない、じっと我慢していたな~ぁ⤴

    1. そうですよねぇ。
      なんだかんだと言ったって、お父ちゃんを家のお母ちゃんも立ててましたもの。

  2. 家族が多かったのでままならない事もたくさんあった。今、テレビのリモコンは独り占め。トイレも順番を待たなくてもいい。そんな生活が当たり前になってしまうと、あの頃は懐かしいけど、う〜ン、戻りたいとは・・・。

    1. そうかぁ!
      ぼくは一人っ子だったから、トイレの順番待ちとかの辛い想い出はありませんでしたねぇ。
      それもありがたかったり、ちょっと寂しかったり!

  3. そういえば、ヤンスタでオカダさんが時々、子供の頃の話をされていましたね!
    ウチも昔は古い家で、雨漏りしてました。洗面器やなんかを置いてしのいでましたねえ。

  4. 狭いながらも楽しい我が家
    懐かしくて愛おしい気がします。
    小学6年生まで長屋のような所に住んでて 鍵っ子だった私は 時々鍵を忘れて学校に行ってしまう事があって 今みたいに携帯もない時代 どうしたかと言いますと なんと トイレの小窓から入ってたんです(笑)
    両親共働きで帰りも遅かったので 夕食も自分達で作ってて 団欒という記憶があまりなく こんなミニミニ事件の記憶しかないけど やっぱりあの時代が良かったなぁ〜。

    1. そうですとも。
      まったくわが家も狭かったものです。
      でも不必要に家が広くなり個室化すると、家族の心まで距離感が出来てしまうのかも知れませんねぇ。
      開けっ広げな昭和の狭い家が、時として煩わしいながらも懐かしくてなりません。

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