今日の「天職人」は、岐阜市神田町の「鮎一夜干し職人」。(平成24年3月24日毎日新聞掲載)
金華の山に霞立ち 春日煌く長良川 若鮎恋し釣り人も 穂先が撓りゃ固唾飲む 塩焼き煮付け鮎雑炊 いずれ劣らぬ美濃の旬 天日を浴びた一夜干し 左党も唸り舌を巻く
岐阜市神田町で昭和23(1948)年創業の、鮮魚生鮎専門の大力。三代目主の土屋敏久さんを訪ねた。

杉の薄板に、屋号と住所氏名の名刺。
役職欄には「息子」の文字。
「個人商店やで、『肩書きは息子』。まあご愛嬌やね」。
敏久さんは昭和35年に長男として誕生。
高校を出ると父に言われた。
「父が進学に反対で、魚屋継げと。こっちゃあ魚屋になりたくないし。それでたった1つだけという条件で受験したんやて」。
東京の大学へと進学。
建築関係のアルバイト先から、卒業後の入社を誘われた。
「ところが祖母の容態が悪化したんやて」。
取るものも取らず帰省。
そのまま家業を継ぐことに。
「そしたらなんのこたぁない。祖母も元気になって、それから20年長生きしたんやで」。
時は昭和59年、バブル時代を目前に、店も大忙しだった。
昭和61年、秋田出身の千夏さんと結ばれ、一男一女を授かった。
「大学の後輩なんやて。結婚前は、給料もらうと妻の住む東京へ出て、日曜最終の新幹線で戻ったもんや。まだシンデレラエクスプレスだとか、世間が騒ぎ出す前に」。
鮎の一夜干しは、先代の手により始まった。
「それこそ見よう見真似やったみたいで」。
やがて代替わりを果たすと、敏久さんは鮎の上がる川に着目。
「今は飛騨金山上流の、馬瀬川とか和良川やね」。

鮎の一夜干しは、5月末頃から盆まで。
中でも取り分け、最高の出来栄えは6月末という。
「盆を過ぎると、産卵にかけ骨が硬化してまって、口当たりを損なうんやて」。
一夜干し作りは、まず目利きが物言う鮎の競りから。
「決め手は、大きさ、色艶、上がった川。何より釣り人が『いい鮎や』と釣り上げたのが一番」。
次に仕入れた鮎を背開きに。

毛抜きで一匹一匹丹念に鰓を取り、毛抜きの裏側で血合いを取り除く。
そして歯ブラシで、腹の内側の黒い薄皮を取り、塩、酒で下味を付け一晩冷蔵。
翌朝、天候を見定め、梅雨の晴れ間に、屋上で天日干し。

「まずは背に陽が当るように干し、午後から引っくり返して内側を干す」。
次に冷蔵庫で荒熱を取り除き、発送用に箱詰め作業。
「一夜干しには、天敵もおるんやて。なんやと思う?スズメバチやて。あいつら皮一枚だけ残して、見事に身を削いでってまう、かなりの魚食いやて」。
大力の店頭に一夜干しは並ばない。
なぜなら全てが全国からの注文だからだ。
「すぐ欲しいって言われても、いい鮎が梅雨の晴れ間に上がらな話にならん」。
注文から商品が届くまで、1ヶ月近くの待ちはざら。

「東京の常連さんから、5月に注文が来て、商品届けたのは7月や。でも最高の旬を味わいたい粋人は、『待つのも楽しみや』だと」。
「岐阜で鮎売るなら、いい鮎が無い時は、ありませんと言える誇りを持たなかん」。

それが鮎の本場岐阜県に生まれた、一夜干し職人の矜持だ。
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干物!
いいですね~ぇ!
鮎の干物、う~ん⤴
大好き!
岐阜に住んで居ながら、中々の高級食材で・・鮎の甘露煮もしかり
盆と正月が来ても食べられない!
あ~ぁ⤴世知辛い世の中になったもんだ!
ここの鮎の一夜干しは、とにもかくにも最高でした。
頭から尻尾まで丸ごと食べられちゃいます。
もう一度食べたいものですねぇ。
こだわりを持って作られ、美味しいって分かっているからこそ、待ってでも食べたいと言うファンがいるんでしょうね。
そうなんですよねぇ。
だから贈答品として贈る場合は予約だけをして、後は天候との相談で出来上がった都度、順番に贈るようですので、今のネット通販の様に配達日の指定なんて出来ません。
それくらいの緩~い気持ちで待ち侘びる、そんな商品だけに美味しさも際立つんじゃないでしょうか?
鮎の一夜干し 一度も味わった事がな〜い(泣)
食べてみたい!
身がほっこりしてるのかなぁ?
美味しいものは やっぱり誰かと一緒に味わいたいですよね。
もちろん日本酒もお側に(笑)
小振りの鮎を使っておられたので、身がほっこりと言うよりも、網で炙るとパリッと香ばしい感じでしたよ。