今日の「天職人」は、三重県いなべ市大安町の「鋳物用木型師」。(平成24年3月10日毎日新聞掲載)
出しゃばりもんの天秤棒 「鋳掛鋳掛」と流しゆきゃ 鍋釜抱え長屋から 急ぎ飛び出す古女房 路地で鋳掛屋店開き 女房連中屯して 亭主の愚痴で憂さ晴らし 尾鰭が付いた鋳物尺
三重県いなべ市大安町の伸光木型製作所。たった一人きりの鋳物用木型師、水谷博さんを訪ねた。

「人生、辛抱が肝心や。辛さを抱いたまんま、辛抱して生きとってみい、やがてそいつが、自分の心棒に代わる日が来るんやで」。人懐っこい笑顔を満面に浮かべ、男は作業場へと誘った。
博さんは昭和16(1941)年に誕生。
「わしは母の連れ子やったんさ」。
中学を出ると桑名市の木型製作所で住み込み修業。
「まあ、昔ながらの丁稚奉公やさ。箱膳で毎日倹しい食事や。親方らの家族は、鮭の切り身が付いとんやけど、わしら奉公人にゃあ一切無し。すると親方が、自分の鮭を3分の1ほど切って、わしらに施してくれよった。一月勤めて小遣い1500円もうて、床屋代の70円だけ自分で使ったらそんで仕舞いや。はぁ?だって後は、家から取り上げに来るんやで。下の弟たちも、まだ小さかったしな」。

昭和37年、5年の年季が明けると、今度は1年間の御礼奉公。
「とにかく修業中は厳しかった。親方が片腕にしようとしてな。でもこれでやっと通い職人や。給料もいっぺんに月4万円に跳ね上がって」。
昭和45年に見合いで月子さん(故人)と結ばれ、一男を授かった。
高度経済成長と共に、通い職人の給料も月8万円に倍増。
しかし昭和50年、20年近く勤めた職場を辞した。
「親方が辞めんといてくれって土下座までして。店もお前にゆずるってゆうてくれたけど」。
タイヤ工場と別の木型屋に、二束の草鞋で働き詰めた。
「寝るのはたったの3時間やった」。
昭和54年、ついに独立開業。
「主に電気モーターの、鋳物の木型製造やわ。足踏みミシンの踏み板や、カメっちゅうベルトカバーやら、中足外足にプーリーっちゅう胴体やさ」。

木型作りは、メーカーの図面を元に、立体図面を起こす作業から。
「鋳物師とどう分割するか、相談せやなかんしな」。
次に姫小松、朴の木を木取りし、木型になる上型、下型、中子(砂型)を、鉋と鑿で削り、ペーパー掛け。
次に中子の砂離れが良いように、透明の塗料を塗り、いざり止めにだぼを打つ。
そして底板や土台は、シナベニアで加工。
「姫小松は、年輪が細かく、夏目と冬目が変わらんし、粘りもなくやわこい。逆に朴の木は粘りがあって、鋳物の周りの、欠け易いような細かい場所に、持って来いの材なんやさ」。

作業場のあちらこちらには、木型師人生55年を物語る、大小様々な木型が、渦高く積み上がる。
さながら職人の履歴書のようだ。
「ここらは昔から、鋳物が盛んやった。鋳物噴いとるとこだけで、50軒は超えとったやろ。せやけど今しは、たったの10軒や。木型屋なんか、もう残り2軒やで。とにかく、安てええもん作って当たり前。いらん欲は捨てやなかん」。
老木型師が、少年の眼で笑った。
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金型って聞いた事があるけど、
木型があるとは知りませんでした。
しかし世の中には、どんだけ~~ぇ⤴の職種があるんでしょうか?
ひょっとしたら人の数だけあるかも?
んな~ぁ⤴事はないですねぇ!
もし生まれ変われたら・・
絶対!
ライブハウスのオーナーになる!
夢だけは持つよ~~ぉ⤴
数多ある職種の中から一つの職と出逢うと言うことは、やっぱり何かしらの巡り合わせがあってのことなんでしょうねぇ。
「人生、辛抱が肝心や…」の言葉 心にグサッときます。
名言ですよ( ◠‿◠ )
この方は どうしてずっとずっと頑張ってきたんだろう?人生の歴史を見て ふっと思ってしまいました。
最後の「いらん欲は捨てやなかん」
胸に留めておきます。
どんなに欲を抱いたところで、所詮両手で掴める量には限りがありますものねぇ。