今日の「天職人」は、愛知県豊橋市湊町の「焼麩職人」。(平成24年2月25日毎日新聞掲載)
春の陽射しの濡れ縁に 日向ぼっこの硝子鉢 浮き草の陰身を寄せて 水温むのを待つ金魚 脇を小突いてガラス鉢 焼麩千切って浮かべれば 尾鰭ゆらりと振りながら 水面に並ぶおちょぼ口
愛知県豊橋市湊町の織九。五代目焼麩職人の中村彰子さんを訪ねた。

大黒・戎の二福神が描かれた錦絵。

今のチラシ広告だ。
「焼麩、蒟蒻、生麩製造業、「山に九」の家印に「織九店」と堂々の墨痕。
「慶応元(1865)年の創業です」。
愛知県豊橋市湊町の織九。五代目焼麩職人の中村彰子さんを訪ねた。
彰子さんは昭和33(1958)年に、長女として誕生。
大学を出ると、豊橋鉄道でバス旅行の添乗員に。
やがて結婚の適齢期を迎えた。
「結婚すると、添乗で家を空けられない…。叔父の同級生だった、ここの先代が『お前さんは商売に向いとる』って」。
昭和57年、織九へ転職。
「代々この店は、蒟蒻製造が主人。焼麩は奥さんという仕来りで。でも麺筋と呼ばれるほど、グルテンのタネを伸ばして切るのは重労働。しかも熱いし」。
だが裏腹に、焼麩作りに魅せられた。
「水と小麦粉だけで、色んな形が作れるし、楽しくって」。
見よう見真似で修業を始めた。
他社の見学にも出向くが、どこも見せも教えもしない。
「ある人が『待っとったって、誰も教えてくれん。盗まんと』って」。
そんな日々が半年ほど続いた頃、先代が病に倒れた。
当然、焼麩担当の妻は付きっ切りの看病。
否応無く焼麩製造は、彰子さんに委ねられた。
「始めは真っ黒けに焦がして失敗ばっかり。でも直ぐ店に並べなきゃ…。試行錯誤の連続で、極限状態の日々が続いて…」。
だがそんな苦労も、翌年報われた。

昭和58年、五代目主の中村登志保さんと結ばれ、二男を授かった。
「息子は生まれた時から、おやつ代わりが焼麩。だからカタツムリとか、クマさんの焼麩を作ってやったり」。
平成10年、それまでの無理が祟り大病に。
病が癒えると平成14年、今度は先代が他界。
「柱が欠けた気がして」。
伝統の継承だけでは、時流の波に乗れない。
伝統に頑な夫を説き伏せ、平成16年に焼麩専門工場と直販店を独立させた。
焼麩作りは、早朝に始まる。
小麦粉のグルテンに、水少々と小麦粉を入れ攪拌。
当分に分けて休ませる。
次に練機で練って成形し、水槽に浸けて休ませる。
「岐阜の方は粉焼き。豊橋は水焼なんです」。
そして杉板の上に乗せ、手の感覚だけを頼りに伸ばしながらタネ作り。
次に巨大な餃子焼器のような釜に入れ、プクッとタネが膨らんだところで水打ちし、焼き上げれば完成。

「直径3ミリほどのタネが、焼くと10倍以上に脹れますからね」。
焼き立ての味は、表面がパリッとし、中がもっちりとした絶妙の味わいだ。
「昭和43年製の機械だから、自動調節機能もないし…。だから温度も湿度も水の打ち方も、すべて経験から来る勘だけが頼り。でも全て機械任せじゃなく、職人が一手間加えることで、美味しさが増すんだから」。
焼麩は小麦の味が命。

だから刺激のある香辛料の摂取はご法度。
それが147年続く、この家の職人の定めである。
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焼き麩 最近は買わなくなりましたね〜。ハンバーグを作る時 かさ増しする為に使ったり 昔々は 離乳食を作る時に よく使ってました。あと 高齢者のディサービスでの昼食を作る際には お出しで煮て卵でとじた料理を作ってました( ◠‿◠ )
味がすぐ染みるし消化も良いですから。
今もなお現役の食材なのに なぜか懐かしさを覚えてしまいます。
ぼくは生麩も焼き麩もどちらも大好物です。
焼き麩ならば金沢の車麩が特にお気に入りです。
子供の頃、茶碗蒸しに花麩が入ってて、好きだったんだけど、あれは油断すると口の中を火傷する(¯―¯٥)
手毬麩は色鮮やかで、とっても料理が映えますよねぇ。
麩って!
味噌汁の具として
熱くて「フゥフゥ~!」して食べるよねぇ!
口の中、火傷する勢い!
けど、味がしみて美味しい!
名脇役!
まるで私のようだぁ!
どんな料理の味にも染まって、けっして出しゃばらない麩って、なかなかどうして大したものです。
まるで悟りを得た立派な人格者のようですねぇ。