今日の「天職人」は、愛知県岡崎市合歓木町の「軍手職人」。(平成23年12月17日毎日新聞掲載)
巨人大鵬卵焼き 野球小僧は日暮れまで 木枯らし吹けど駆け回る 膝っ小僧に粉噴かせ 太目の枝がバットなら 軍手を重ねグローブに 投げては打って滑り込む まだ見ぬ明日をただ信じ
愛知県岡崎市合歓木町で、昭和45(1970)年創業の蜂須賀手袋。蜂須賀栄子さんを訪ねた。

昭和半ばの母は、着膨れた重ね着に割烹着、それに絣のモンペ履き。
両手には、使い古しの軍手を幾重にもはめ。
段ボール箱を括りつけた自転車で、市場の特売を目指した。
「ほうだよう。どこの家でも、お母さんたらあはみんな、そうやってあんたら子どもを大きしたんだに」。栄子さんは、編み上がった軍手を取り上げながら笑った。
栄子さんは安城市の農家で、昭和22年に3女として誕生。
中学を出ると水産加工会社に勤務した。
「私ら金の卵やっただ」。
仕事帰りは、洋裁や編み物の花嫁修業。
昭和42年、繊維商社に勤める幸男さん(故人)と結ばれ、やがて一男一女が誕生。
「腹が大きくなった頃からだわ。父さんが糸を収めとる軍手屋で、内職の仕事を貰って来てくれて。最初は元手もないで、父さんも会社から帰って来ると、内職でミシン踏んどっただに。毎晩夜通し、夫婦で交代しながらミシン掛け。子どもも乳母車に入れたまんまで、それこそミシンの音が子守代わり。父さんなんか、会社の車で営業に回る時でも、得意先に赤ん坊連れて行っとっただ。哺乳瓶にカルピス入れて、オムツまで持って。そいでもって帰りがけには、『子どもさんに着せたって』ゆうて、着る物から米まで、貰って来ておくれただ」。
幸男さんは得意先の誰からも、蜂須賀の「ハッチャン」と呼ばれ親しまれた。
「そのうち私の内職の給料の方が、父さんの倍近く貰えるようになっただ。そしたら『脱サラして俺も本腰入れるわ』と」。
高度成長真っ只中の昭和45年、ついに夫婦二人の蜂須賀手袋が船出した。

当時1台33万円もした、高価な編み機2台からのスタート。
「元手が無いで、私の実家から貸してもらって。でも2年で返済して、その後は儲けが出るたび1台ずつ増やして、最盛期には27台もあっただ」。
ところが昭和48年、日本国中がオイルショックに震撼。
「軍手製造もあっと言う間に不景気に。でも父さんは、そんなことくらいじゃめげんかった。直ぐに弁当箱提げて『使ってくりょ』ってなもんで、建築会社へ勤めに出て、不景気を凌いだだで」。
通常の主糸2本を1本にし、残りを各織物会社から提供される残糸を使う、蜂須賀の軍手作りはいたって簡単。
まず残糸を選り分け分類し、それを編み機にセットしていきなり編み機に掛けるだけ。
後は内職の手仕事で、編み口の糸処理を施せば完成。

「残糸は、細い糸が縒り込んであるもんで、とにかく丈夫。その上残糸の寄せ集めで、彩りが異なり、2つと同じ物は出来んだで」と、二代目の隆之さん。

「屑にされる残糸でも、まあいっぺん軍手に生まれ変われるだで。そう父さんがよう言うとった。残り物には福があるだで」。
栄子さんが壁の夫の遺影を見つめた。
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こんなにカラフルな軍手があるなんて!
知らなかった〜。
養護学校の中学部ぐらいになると 作業や草取りなどの時に 軍手をはめる場面があるんですけど いろんな理由があって なかなかはめる事が出来ない子も…。
でも こんなにカラフルな軍手なら ちょっとでもはめてみようかな?って 思ってくれそう( ◠‿◠ )
余計テンションが上がっちゃうかも(笑)
お気に色のカラーの軍手をはめると、ついつい汚したくなくなっちゃうかも知れませんけどねぇ。
色とりどりのカラー軍手に、滑り止めが付いた軍手と、知らないうちに軍手もおしゃれになりましたよね⤴️
たかが軍手、されど軍手ですねぇ。
軍手って
最近使っていないな~ぁ!
昔は車のタイヤがパンクした時、タイヤチェーンをする時
トランクには必ず入っていた必需品でした。
道路も良くなって、タイヤの性能も上がったから
ホント一個人としては使わなくなりました。
オカダさんと軍手って・・・
ハメている所が想像つかない!
ぼくだってオーバーオールに軍手姿で、ベランダガーデニング仕事をちゃんとやってますよう!
もう少ししたら、天突き南蛮の株分けをやんなきゃあ!
どうよ!