今日の「天職人」は、三重県松阪市飯南町下仁柿の「和包丁鍛冶」。(平成22年10月9日毎日新聞掲載)
菜切り包丁一本で 母は何でも切り分けた 野菜果物肉魚 ケーキ羊羹お漬け物 柄の付け根まで朽ちようと 研いでは使うその訳は 嫁入る時に一つきり 祖母が持たせた道具ゆえ
三重県松阪市飯南町下仁柿の鍛冶安。五代目和包丁鍛冶の赤畠大徳さんを訪ねた。

カンカンカンカンカーン。
白猪山麓の静かな里に、規則正しい鎚音が響く。

「30年前まで爺さんは、地べたでコークス焚いて、野道具の備中鍬や唐鍬なんかを誂えとったんやで」。大徳さんは、金床からゆっくりと顔を上げた。

鍛冶安は、明治27(1894)年、坂を下った旧伊勢本街道沿いの作業場で、火床に火入れを始めたという。
大徳さんは昭和50(1975)年、3人兄弟の次男として誕生。
「祖父が亡くなる小学校の4年まで、爺さんの鍛冶場が好きで、しょっちゅう遊び場にしては叱られたもんやさ。鉄を打つゆう行為に、オスとしての本能が反応したんやろか」。
体育教師を志し、大阪の大学へと進んだ。
「母校へ教育実習で行ったら、体がでこ(=でかく)ないもんで高校生に転校生と間違われて『おいっ、兄ちゃん』って呼ばれてもうて。バレー教えようとしたら、基礎練習はちっともしやんと、『はよ試合させろ』ってそればっかり。俺らと4つ5つしか違わんのに、みんなえらい無気力で。こりゃあ手に負えんやろうと逃げ帰ったんさ」。
卒業後は就職もせず、バイト生活の日々が続いた。
「このままやったら、身も心も腐ってまう」。
ついに帰郷。鉄鋼建設を営む父の手伝いを始めた。
それから3年。
「おとっつあん死んだら、この先なとしよう」。己の行く先を己に問い掛けた。
そんな折り、知人から京都の鍛冶師「義定」、十代目当主の山口悌市朗氏を紹介され、すぐに京へと上り弟子入りを請うた。
「そしたら案の定『やめとけ』って。そりゃあ一応、師匠たる者、最初はそう言いますやろ」。
平成13年、弟子入りが認められ修業に入った。
それから6年、和包丁鍛冶のイロハを学び帰郷。

ついに平成18年、22年間火が消えたままの鍛冶安の火床に、真っ赤な火が燃え上がった。

出刃の火造りは、まず鋼と地金を出刃の寸法に地切りすることから始まる。
「出刃や刺身包丁の片刃は、両刃とちごて、右利き左利きで刃の位置が違ごてくるで」。
そして火床に入れて鍛接。

次は火床から取り出し、荒々に叩き伸ばし、柄に差し込む中子を造り焼きなましへ。
「火床で温度を上げ、それを藁灰の中で一晩掛けてなだめるんやさ」。
火造りが終わると、研磨盤に掛け、磨り回し。
次に鉄側から叩き、鋼を叩き占める冷間鍛造へ。
そして泥を塗り火床で焼入れし、そのまま一旦水に浸け、再び180~200度で焼き戻す。
「鋼の粘りをだすんやさ」。

そして粗研ぎで歪みを取り、本研ぎで仕上げし、朴の柄を挿げ「火造鍛造 大徳作」の銘がタガネで刻み込まれる。

「鉄は文句も言わんし、己の技量一つでええ子にも、出来の悪い奴にもなる。せやでこれまでグレた奴を、銘もよう刻まんと、どんだけほうたったか」。
若き鍛冶匠は、悪戯小僧のような目で、燃え盛る火床を見つめた。
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皆さんお元気ですか?今月も現れましたよ。自粛生活で、一日が早く過ぎて行き老け込みそうです(T_T)
オカダさんはお花見に行きましたか?私は、住宅内に一本だけ桜の木があり、只今満開で 今年は例年よりも綺麗な気がしてます。なので、その桜を毎日眺めて満足している今日この頃です。
ぼくは墓参りの折に、桜を堪能させていただきました。
悪戯小僧のような職人さんは きっと鉄が好きで 変化していく姿を見届けるのは もっと好きなのかも?!(笑)
作業中 真剣な表情の中に 誰も気付かないほど小さくニヤリとしてたりして。
和包丁って あまり使った事がないけど 写真の包丁の柄の部分 細いですね。もっと太くてがっしりした和包丁しか見た事がないから。きっと 刃と持つ部分とのバランスが良くて 切る時 手にあまり負担が掛からないのかも。( ◠‿◠ )
彼はバザールなどのイベントにも積極的に出かけて行って、自分が鍛えた和包丁の販売を行っています。
新しい形の和包丁文化を、彼なりのセンスと熱意で、これからも彼の創り出す和包丁のファンを、きっと作っていくことでしょう。