今日の「天職人」は、岐阜県高山市の「からくり楊枝とり職人」。(平成22年3月24日毎日新聞掲載)
ご隠居さんのご自慢は 世にも不思議な民芸品 子ども相手に得意げに 講釈垂れてご満悦 「これわかるか」と木の箱の 片隅押せばキツツキが 楊枝啄み持ち上げる 飛騨のからくり楊枝とり
岐阜県高山市のきこり工房、からくり楊枝とり職人の瀬川治男さんを訪ねた。

飛騨高山の盆地は、雪解け水に洗われ、清らかな春の訪れを待ち侘びる。
遥か彼方に、峻険な稜線を横たえた霊峰乗鞍。
冠雪と山肌が描いた真冬の雪景は、音も無く日毎その姿を変えてゆく。
飛騨高山の春は、もうすぐそこまでやって来た。
「保育園の頃、いっぺんも見たことも無い富士山の絵を描いたんやさ。そしたら先生やみんなから、えっらい褒められてまって」。治男さんは、窓から山裾に残る根雪を見つめ、懐かしそうに笑った。
治男さんは昭和27(1952)年、お好み焼屋を営む両親の元で、4人兄弟の長男として誕生。
中学を出ると木工訓練校に夜学で1年通い、木工塗装を学んだ。
「それから通信教育で高校出て名古屋の家具屋へ。塗装やらせてくれるって言うもんやで。でも最初っからはさせてまえんで、2年ほど木工の加工を修行して、23歳になってやっと塗装やさ」。
それから4年、塗装一筋で腕を磨いた。
「それでもまだ納得いかんのやさ」。
昭和54年家具屋を辞し、失業保険で食い繋ぎながら、塗装の訓練校へと通った。
翌年、高山へと帰郷。
「最初はトラックに看板出して、出張で大工仕事やわさ。やれ襖がかたいだとか、棚吊ってくれとか。今で言う便利屋の先駆けやな」。
昭和57年、古民家を改造し、たった1人できこり工房を旗揚げた。
「最初は鶏小屋借りて、周りをビニールで囲っただけの粗末なもんやさ。そしたら音が喧しいって五月蝿がられてまって、古民家に落ちついたんさ」。
だがその翌年、なんの前触れも無く、大きな転機が訪れた。

「問屋の客が『爪楊枝を上手いこと1本取る、そんなからくりできへんか?』ってゆうてきてな。どうせ暇やで、手むずり(手探り)でやったんやさ。それも駄洒落で、楊枝『取り』と『鳥』をひっかけて。最初は『鳥』も鶏やって、でもそれじゃ大き過ぎてまってな」。

やがてこれが実用新案を得、永年土産物品の上位を定位置とする「からくり楊枝とり」になろうなどとは、当時の治男さんにも想像がつかなかった。
翌昭和58年、美智子さんを妻に迎え、二男一女を授かった。
「新婚旅行で北海道へ行ったんやさ。そしたら旅先の宿に電話が入って、近くの飲食店から200個も注文が入ったって」。
それが世に認められた瞬間だった。
その年、観光土産物品の見本市にも出品。

全国津々浦々からの注文を得、月産3500個を家内でフル操業。

翌年には実用新案も取得した。
「からくり楊枝とり」は、右手のレバーを押すと左手の蓋が開き、木箱の上の鳥が前傾姿勢となって、嘴で楊枝を1本咥えるもの。
「究極の仕上げは、鳥の嘴の内側に、滑り止めの加工をするとこやさ」。
町のからくり細工師が、自慢げにこっそりほくそ笑んだ。
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楊枝が一本だけ取れるって所が不思議で、「凄い!凄い!」って言いながら何回も楊枝を取ってしまいそう。
ダメですって!
そんな子供のような事をしちゃあ!
「天職一芸〜あの日のpoem363」
「からくり楊枝とり職人」
いい色合いで もう、可愛くてたまりませんね。
今の時代にも一本だけとり出してもらえるから 良いですよね。
そうですねぇ!
コロナの感染予防にももってこいですねぇ!
ずっと ずっと オカダさんのpoemのように子どもの頃に遊んでいたのはキツツキの楊枝とりだと思っていましたけれども年数でたどると プラスチックで出来ていたので いい頃かげん大人になってから遊んでいたのだと思いました。わ
いくつになっても少女のような心をお持ちで、素晴らしいじゃないですか!
心はいつまでたったって、チャーミングでなきゃいけませんよねぇ。
可愛いわ〜( ◠‿◠ )
閃いたお客さんも凄いし 作品を完成させた職人さんも凄い!
以前 父親が入院した時「爪楊枝を持ってきてくれ」と言われ プラスチック製でボタンを押すと爪楊枝が1本飛び出す物を準備した事があったけど この可愛らしい”からくり楊枝とり” のほうが 気持ちが和むだろうから 早く知っておけばよかったなぁ〜。
昔は良く食堂のテーブルに置いてあって見かけたものです。
今も高山の民芸居酒屋や、地元の人相手の食堂とかで見かけるほど、飛騨の方にはとってもポピュラーな逸品です。