今日の「天職人」は、三重県松阪市の「鮮魚列車行商人」。(平成22年1月6日毎日新聞掲載)
夜の帳も明けぬのに 天秤棒で荷を担ぎ 伊勢の鮮魚の振り売りへ ヨッコラ上る跨線橋 凍てたホームに白い息 行商たちが身を寄せる 馴染み客待つ上方へ 鮮魚列車は走り出す
三重県松阪市、鮮魚列車行商人の東田里子さん=仮名=を訪ねた。

「おはよ」。
「今日はまたえらい冷えよるわ」。
「せやなあ」。
午前五時過ぎ。
近鉄松阪駅の東口に、鮮魚の行商人たちが集まり出す。
伊勢湾でその日上がったばかりの鮮魚を、思い思いに携えながら。
通勤通学客と別のホームには、やがて宇治山田と大阪上本町とを結ぶ、貸切専用列車が滑り込んで来るのだ。

先頭車両の行灯に「鮮魚」の二文字を燈し。

その列車こそが、時刻表には載らない「鮮魚列車」だ。
伊勢湾の鮮魚を、行商人が奈良や大阪へと運ぶため、昭和38(1963)年から近畿日本鉄道で運行される、伊勢志摩魚行商組合連合会の貸切専用列車である。

「昔はアサリがようけ獲れよってな、2日活かしといて砂抜くんやさ。そして天秤棒担いで、この鮮魚列車で京都や奈良へ、振り売りに歩くんやで。まだアサリでも枡の量り売りの時代やさ。わたしら結納交わした翌日から、夫に連れられ行商始めたんやで、もうじき半世紀や」。三重県松阪市、鮮魚列車行商人の東田里子さん=仮名=は、ホームで白い息を吐きながら笑った。

里子さんは漁師の家で、昭和19年に4人姉弟の長女として誕生。
中学を出ると海苔の加工会社に勤務。
昭和38年、兼次さん=仮名=と結ばれ、一男一女を授かった。
ちょうど東京五輪の前年、鮮魚列車が専用扱いとなった年のことだ。

「元々夫は漁師やったけど、手が遅いもんで間に合わんのやさ。そやで結婚した時にはもう陸に上がっとった」。
京都駅からバスを乗り継ぎ、各地を転々としながら商いを続け、やがて大阪へと辿り着いた。
「ここがええって、居座ったんは東淀川区の辺やわ。小さな商店街の軒先借してもうてな。せやけど最初の客掴むまでは、そりゃあ大変やった。その内に『あそこの姉ちゃんとこの伊勢の魚は、鮮度もええし脂が乗って旨い』って評判になってな。確かに伊勢の魚は、地がええで。鳥羽の方は海も荒れるし汐が辛い。それに魚の種類も違うんやさ」。
夏はアサリに冬は海苔。
神々住まう伊勢の海産物を背に、夫婦は毎日上方へと通い詰めた。
「昔の専用列車じゃない頃は、一般の人らと一緒の乗り合いやったで、魚臭いとかよう苦情が来たらしい。そんな頃は、まだ行商人もようけおったんやさ。でも今しはもう売れやんで、行商行くもんも少ななってきたし」。

鮮魚列車の運行開始時から、はやかれこれ半世紀。
雨の日も風の日も、夫婦二人で鮮魚を携え大阪へと通う日々。
「今しも、喧嘩しいしいやけどな。ほんでも行商のお陰で、子どもら2人育て上げられたんやで」。そう笑い飛ばしながら、鮮魚の荷に手を掛けた。
すると電車がピタリと滑り込む。

けっして時計を見たり、案内放送が聞こえた訳ではない。
半世紀に及ぶ行商人生と、苦楽を共にした鮮魚列車。
駅に近付く軌道音と気配が、いつしか体に染み込んでいるようだ。
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電車の写真を見て思わず「へぇ〜」って声が出ちゃいました。
本当に知らなかったから。
すぐ検索したら 2020年3月まで運行してたんですね。
古き良きものが姿を消していくのは 寂しい。
今や何でも配達してくれる時代だけど こうやって行商人さんが相手の元へ…
大変なお仕事だけど もし私が先方側だったら 凄く嬉しいし信頼し切ってしまうでしょうね( ◠‿◠ )
行商人さんは、自分が売る商品に詳しいし、美味しい食べ方もよくご存じですから、対面販売のコミュニケーションは何てったって最高ですものねぇ。
この鮮魚列車は昨年3月まで運転されて今は一般ダイヤでの運行で一両が専用車両で運行されてるようですね。市電下之一色線があった頃もそのような光景があったと聞いてますが、この光景も令和ではほとんど見かけないですね。
中川区の下之一色も魚の町ですものねぇ。