今日の「天職人」は、三重県伊勢市の「雑誌編集長」。(平成21年1月20日毎日新聞掲載)
商店街の情報誌 女将総出でジャンケンポン 勝って誰もが狙うのは 編集長の役どころ 特集記事の食べ歩き 身銭じゃ行けぬ店ばかり 「誰が行く?」とは問いながら 真っ先駆け出す編集長
三重県伊勢市、情報誌「NAGI」を発行する月兎舎(げっとしゃ)。編集長の坂(さか)美幸(本名・日比)さんを訪ねた。

「子供の頃、授業中に『ミニミニ坂(さか)新聞』ってゆうの作って。身近な何でもない出来事を、セッセと小さなメモ帳に書いて、友達にこっそり回覧すんのが楽しみやってん」。美幸さんは、おっとりとした伊勢訛りで語り出した。
美幸さんは昭和44(1969)年、市内でマッサージ治療院を営む両親の元に一人娘として誕生。
「両親共に目が見えやんのやさ。せやで母は、私がどんな顔して産まれて来たかも知りませんに」。
小中学校時代には、国語の教師を目指した。
「家で白黒テレビ見ながら私が『あの赤いバラ綺麗や』とか、『海が真っ青や』とか、独りでしゃべっとったらしいて、それ聞いて両親がえらいたまげて。『知らん間にテレビが、カラーになってもうた』って。それで慌ててカラーテレビ買(こ)うてくれたらしいんさ」。
確かに白黒テレビでも、ドラマに夢中になると色付きに見える気がしたものだ。
高校では文芸部員に。
「先生から『お前の文章は、意味が分からんけど、何や存在感があるなあ』って」。
短大を卒業すると、赤福の版画工房に入社したはずが、職人の空き枠が無く売り子に。
「こんなはずやなかった」と1年で退社。
貯金を叩(はた)き、京都の染色学校で1ヶ月間学んだ。
染色を志す仲間たちとの出逢いを糧に、再び伊勢へ。
すると高校時代の文芸部の恩師から「お前に向いとる仕事がある」と、雑誌社を紹介された。
翌平成3年に雑誌「伊勢志摩」の編集に携わることに。
取材で改めて地元の素晴らしさを再認識。
「ちゃんと伝える使命があるんちゃうかな」と。
2年後、伊勢に住まう神々は、運命の出逢いを導いた。
「岩渕町のお白石持(しらいしもち)行事の密着取材で、老若男女の団結力に魅了されて。普段ダッサイかっこしたオヤジでも、町の法被1枚で『メッチャかっこええやん』ってほどイナセ。『もう絶対この町へ嫁に来て、あの法被が着たい!』と」。
すると奇遇にも、長老たちが1人の青年を引き合わせた。
たちまち意気投合。
平成8年には賢(まさる)さんの元に嫁ぎ、一男一女を授かった。
平成11年、2人目の子育てに専念したいと雑誌社を退社。
するとそれを待ち受けたかのように新たに創刊される「NAGI」編集長への誘いが。

「今を生きる『ヒト』を切り口にした雑誌が作りたいと、発行人とも同じ考えやったし」。
これまで創刊から数え35号が世に出た。
「読者の声がなによりのビタミン剤。もっとええもん作らんと」。

光を失った両親は、ボランティアが朗読したテープで、一人娘の記事を聴く。
両手に厚手の雑誌を押し抱くように。

「そういうたら、昔から手触り感のあるもんが好きやった。もしかしたら親に触らせて、伝えたかったでやろかな」。

編集長は庶民の心や言葉を紡ぎ編み、小さな希望の明日を、1冊の書物に封じ込め続ける。
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以前、なっげぇ〰(長い)メッセージを投稿していたあのお方同様、文章を書ける人は尊敬しちゃいます⤴️
オカダさんも、嫌いじゃないですよねぇ、文章を書くのは?
ぼくも稚拙ながら、紀行文とか、人を取材した文章を書くのが好きですねぇ!
文章を書くだけでも難しいのに 取材をしたり 構成を考えたり 読む人の為への言葉をチョイスしたり 取材をさせて頂いた方の想いを どう表したら…と考えたり。(想像ですけど( ◠‿◠ ) )
何より 人に興味が無ければ出来ないお仕事なんでしょうね。
尊敬してしまいます。
文章の向こう側にいる人達の顔が見えて来そうですよ( ◠‿◠ )
不思議な事ですが、10年以上も前に取材でお邪魔した方ばかりですが、当時の原稿を読み返しながらブログ用に再編纂したりしていると、その当時の取材風景が鮮やかな思い出され、その場所独特の匂いまで再現されるから不思議です。
今晩は。
雑誌編集長のお話ですね。
雑誌 NAGI 凪初めて見ました。
文章を、書く事は、難しいですね。