今日の「天職人」は、津市半田町の「精進料理」。(平成20年9月9日毎日新聞掲載)
棚田の稲穂色付けば そよかな風に秋茜 寺へと続く路地端で 真っ赤に揺れる彼岸花 母の供養の七回忌 経に舟漕ぐ子どもたち 腹を空かせて待ち侘びた 精進膳に舌鼓
津市半田町の高西寺、二十二代住職の小泉智英(ちえい)さんを訪ねた。

「精進(しょうじん)とはお経読みやで、生物の根元である魂=『精』が『進』む料理、それが精進料理なんやさ。肉や魚やなしに、雨の日も風の日も大地に根を張って生きて来た、四季折々の植物の命をありがたくいただかせてもらうもんや」。法衣を身に纏った住職が手を合わせ、仏のような慈悲深い笑みをたたえた。

高西寺は開闢(かいびゃく)700年とも800年とも伝えられる天台真盛宗の古寺。
智英さんは昭和3(1928)年、名古屋市で役者相手に旅館を営む家で五人兄弟の三番目として誕生。
「5歳の頃、この寺が叔母の家やって、養子にもらわれて来たんやさ」。
地元の旧制中学を出ると、名古屋の第八高等学校へと進学し、インド哲学を専攻した。
「終戦の年の初めに養父が亡くなり、寺の仕事もせんならんし、学校へも片道4時間かけて通わんならん。そうこうしとるうちに空襲が酷(ひど)なって、伊勢大橋も爆弾で落とされてもうて」。初秋の風に揺れる庭木を眺めながら、63年前を振り返るようにつぶやいた。
昭和26(1951)年、23歳で本山より、住職を正式に拝命。
翌年、岐阜県海津町より遠縁の幸子さんを妻に迎え三女が誕生。
徐々に戦争で荒んだ人々の心の傷も癒え、食べるだけで精一杯だったギリギリの時代は昭和30(1955)年代に入って幕を降ろした。
やがて高度経済成長の槌音と共に、日々の暮らし向きにも豊かさが感じられるようになり、人々は先祖供養や法事にも心を砕く余裕を得た。
「元々初穂料をいただいて、法事料理としてお出ししとったのを、昭和43(1968)年に調理師免許を取得して、それから本格的に一般の方にもお出しするようにしたんやさ」。

10品目に及ぶ、心のこもった料理。
磨き上げられた漆器の八寸には、四季折々の食材が見事な天然色の美しさを放つ。
「この辺りの七里四方で採れるもんを、ありがたくよばれやんと」。
その土地で育った野菜を、その土地の水で煮炊きし、その土地の気を胸一杯に吸い込みながら箸を進める。

何とも贅沢過ぎる静かな時間と、人はただただ向き合う。
隣りの座敷から食事を終えたばかりのご婦人たちの話し声が聞こえた。
「あの人らは大阪からおいでんなって、食事の前に私が法話を面白おかしくさせてもらって、それから食事してもうたんやさ」。
関西や名古屋からも、四季折々の旬の精進料理を楽しもうと、小旅行を兼ね女性客が訪れる。
「まあ、これもいっぺん召し上がってみて」。

柿の蔕(へた)の部分が蓋になり、中身が刳り抜かれ大根の膾(なます)が盛り付けられている。
「柿を冷凍にして、2~3年熟成してつこてあるんさ。柿は木偏に市と書くほど、市中のどこにでもあるでな」。
茶華香道の作法と、仏道の精神が合い塗れ、この国の美意識が料理となって膳を彩る。
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精進料理って、優しい味なんですよねぇ⤴️ついつい油を使う調理が多い、わ・た・し。オカダさんは、どう?
ぼくは香港の広東料理の精進が好きで、香港に行くとあっちこっちのお店を探し歩いたものです。
厚揚げや麩をお肉の代わりに見立てるわけだから、最近ブームでもあるソイミートの発想の原点そのものですものねぇ。
今晩は。
・精進料理のお話ですね。
・写真の精進料理美味しそうですね。
盛り付け綺麗ですね。
・私は、精進料理を、外食で食べた事有りません。
・私は、精進料理好きです。
なんと贅沢な時間でしょう。
精進料理味わった事はないけど 確か物凄く丁寧に時間をかけて作られるお料理なんですよね⁈
ゆっくり一口ずつ本来の味を… そして 空間や時間をも 心や身体で味わう。
全てが清められそうな気がします。
想像しただけで 思わず深呼吸しちゃいました(笑)
近い将来、この天職シリーズで、高山の精進料理の料亭「角正」さんが登場しますから、そちらもお楽しみにお待ちくださいね。
こちらはもう一つ、風情があっていいものですよ。