「昭和を偲ぶ徒然文庫 5話」~「願い星」

「『末は博士か大臣か』は昭和の幻?」2011年6月23日 (オカダミノル著)

 

-職業に貴賤なし-

時折り耳にする言葉だが、「ほんまかいな?」と、疑いたくなる場面もある。

特にその言葉を発する者が、上から目線であったりしたなら、とんだ茶番劇の、上滑りな台詞としか聞えない。

ところで、わずか数十年の間に、貴きものから賤(いや)しきものへと、自らの手で貶(おとし)めた職業がある。

それは内閣総理大臣ではなかろうか?

「巨人、大鵬、卵焼き」に象徴された、昭和の半ば。

学校で先生から、将来の夢はと問われると、大半の子が「末は博士か大臣か」と応えたものだ。

写真は参考

取り分けその中でも別格は、大臣の中でも王様級の「総理大臣」だった。

だから必ずクラスに一人くらいは、何の疑いも抱かず真顔でそう応え、教師の失笑を買う者もいたほどだ。

しかし昭和も時代を下るにつれ、いつしか子どもの夢のベスト三から、「総理大臣」や「大臣」が姿を消した。

一時は、貴き職業の頂に君臨した、総理大臣という子どもの憧れは、時の総理自らの手で夢を打ち砕き、多くの国民の期待を裏切り続けた。

その結果が、「貴」から「賤」への失墜だろう。

今も連日、次期総理を巡る駆け引きが報じられる。

今ごろ永田町では、自分が子どもの頃に夢見た、総理の椅子も近いと、こっそりほくそ笑む議員もいることだろう。

だが次の総理大臣たる者よ。

私欲や功名にはやるより先に、後の世の子どもから、「夢は総理大臣」と、もう一度言われる世にすべきではないか?

己を律し、維新の元老に恥じぬ、総理の復権を目指して。

子どもの頃ってぇのは、恐れを知らぬせいか、抱えきれぬほど途方もなく大きな夢を描くものだ。

またそれが子どもの特権でもあった。

こんなぼくでさえ、子どもの頃は見果てぬ夢を描いたもの。しかししばらくすると、その夢よりも煌びやかな夢に目移りし、再び新たな想いを募らせたりもした。

その結果がいま現在だとすれば、そのすべての責は己自身にしかなかろう。

他の誰かが悪いわけでもない。

その責を誰かに押し付けたり、誰かのせいにして、自分ただ一人だけはのうのうと生き延びようとするなど以ての外。そんな邪な考えを抱き、醜態を曝すくらいならば、いっそのこと潔くお迎えを希いたいものだ。

それが人の道ではなかろうか?

ところがどっこい。

一度でも特別な権力や地位を手に入れてしまうと、人は何人たりと言えど豹変してしまう、そんな浅はかな生き物なんでしょうか?

自らの心の賤しさすら、まるで貴きものであるかのようにすり替えてしまう。

先ごろやっとやっとその職を辞された裸の王様も、その足元に巣食うコバンザメのごとき裸の小人たちも、所詮一皮むけば同じムジナ。

こんなぼくではありますが、恥ずかしながらも純真な幼き頃は、「いつかはぼくも、この国の大臣に!」と、何を血迷ったのか両親の前で宣言したことがあったようにも記憶しています。

それはそれはとても儚い夢でもありました。

今さら負け惜しみではありませんが、そんな心賤しい裸の王様にも、ましてや裸の小人にもならず、自分の信ずる貴さを淡々と貫いたことを、きっと彼岸の岸で待つ両親が誰よりも分かってくれる気がいたします。

「お前もわしらに似て、不器用な生き方しか出来やんだんやなぁ」と。

はてさて、今の子供たちにとっての「巨人、大鵬、玉子焼き」は、いったいどんなものに変わり果てたのでしょうか?

尋ねてみたい気もしますが、ガッカリするのがオチかも知れませんので、せめてこの日本に恒久的な平和な世が続き、子供たちの未来が今より少しでも明るい世でありますようにと、ただただ願うばかりです。

今夜は、「願い星」お聴きください。

『願い星』

詩・曲・唄/オカダミノル

逢いたくて逢えなくて 君の名前呼び続けた

夜空に煌めく星を結び 君の顔を描いて

 どんなに愛を語ろうと こんなに心震えても

 君はただ 瞬くばかり

願い星伝えてよ もう一度だけ逢いたいと

そして必ず君だけに 生きて見せると

逢えなくてもどかしいと 心だけが夜を駆ける

君の寝顔に寄り添う心 気付いたろうか

 どれほど愛を語ろうと どれほど心震えても

 君の声が ぼくに聞こえない

願い星伝えてよ もう一度だけ逢いたいと

君を奪って二人そっと 生きてゆこうと

 どんなに愛を語ろうと こんなに心震えても

 君の声が ぼくに聞こえない

願い星伝えてよ もう一度だけ逢いたいと

君を奪って二人そっと 生きてゆこうと

続いては、CD音源の「願い星」オリジナル版と、ちょっぴりジャズっぽいアレンジ版の2曲お聴きください。

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、逸品ではありませんが「子どもの頃、あなたが憧れた職業」。

ぼくの一番古い記憶を手繰り寄せると、憧れた職業の一番は、市電の運転士さんでした。

市電に乗せてもらうと、必ず運転士さんが立って運転されている真横の銀色のポールを握り締め、その一挙手一投足を固唾を飲んで眺めていたものです。

そして家に帰ると、デコラ張りの折り畳みテーブルを壁に立てかけ、テーブルの脚を折ったり伸ばしたりしては、独り運転士さんごっこに興じたものでした。

それは遠い遠い、3歳か4歳ころの霞んだ記憶です。

皆様は、今よりもずっと穢れを纏わぬ純真だった子どもの頃、どんな職業に憧れを抱かれていましたか?

皆様からの思い出話をお待ちしております。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

投稿者: okadaminoru

1957年名古屋市生まれ。名古屋在住。 岐阜県飛騨市観光プロモーション大使、しがない物書き、時代遅れのシンガーソングライター。趣味は、冷蔵庫の残り物で編み出す、究極のエコ「残り物クッキング」。 <著書> 「カカポのてがみ(毎日新聞社刊)」「百人の天職一芸(風媒社刊)」「東海の天職一芸(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸2(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸3(ゆいぽおと刊)」「長良川鉄道ゆるり旅(ゆいぽおと刊)」

「「昭和を偲ぶ徒然文庫 5話」~「願い星」」への11件のフィードバック

  1. 小学生の頃は、体育が好きだったから体育の先生になりたいと思ったけど、成績も良く無いとなれないと知り断熱(笑)その後、テレビで『ローラーゲーム』を見て憧れ、ローラースケートも滑れないのに、「ローラーゲームの選手になりたい!」と親に言ったら相手にされず(笑)それからは、「なれる者になろう!」で今に至る(笑)(笑)(笑)

    1. ローラースケートってそう言えば流行りましたねぇ。
      ぼくもスケートシューズが欲しくって強請っては見たものの、買ってはもらえなかったなぁ。
      きっと運動神経が悪いから、買ってやってもすぐに履かなくなるって読まれてた気がします。

  2. 願い星か❓️今は未だその時季じゃないからお願いはしませんよ(笑)でも、夜空見上げながらいつも幸せは願っていますよ。あ・の・人の(*^^*)

  3. なりたかった職業は『保母』さんでしたよ(*^^*)一応資格をとってホンの少しだけ働きましたね。夢と現実の差を見せつけられ見事玉砕。ハァ~スッキリしたと言ったとこでしょうかね。
    どちらに転ぶか解らないのが夢、憧れなんですよ(笑)

  4. 今晩は。

    ・動画(願い星 弾き語り)を、見ました。

    ・願い星 弾き語り良かったです。

    ・オカダミノルさんが、歌詞を、1ヵ所間違えましたと言っていましたね。大丈夫ですよ。

    ・平和の世の中が永く続く様に 願い星を、選んだのは、私は、良いと思いました。

    (テーマ)子供の頃、あなたが憧れた職業

    考えて見ました。

    私は、ケーキ屋さんになりたいと思っていました。年齢は、覚えていません。
    実際になっていません。憧れで終わりました。

  5. 小さい小さい頃は 保母さんかお花屋さんになりたかったです。
    幼稚園の担当の先生に憧れて…。
    でも 中学生ぐらいになると 毎日テニスボールを追っかけて なんにも考えてなかった気がします。
    高校生の時は ふっと心理学を学びたいなぁ〜と思ってました。
    今でも興味はあるし まぁ毎日が 息子達と両親の心の声なるものを問うような 実践をしてるみたいなものです(笑)

  6. 今宵は どうも お月様が車についてきて 美しいなぁ〜と思っていたら
    今宵は十三夜だったんですね。
    まんまるお月様と二夜 観ると良いことがあるらしいですよ。もうみちゃいましたか?

    1. 芋名月様を拝み見ることが出来ました。
      お月様はいつも優し気で、何だか心がスーッと落ち着くから不思議です。

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