今日の「天職人」は、名古屋市中村区の「太物屋」。(平成十八年十二月十九日毎日新聞掲載)
父は市場の剣豪と 八百屋のオヤジ笑うけど 鮪相手に気合込め 太刀筋キラリ胴を割く 母がこそいだ中落ちを 炊き立て飯の上に乗せ 生醤油落しかぶりつく 欠けた丼朝ご飯
名古屋駅前、柳橋市場の一角。鮪の太物を専門とする、魚勝商店二代目の犬飼清和さんを訪ねた。

あの巌流島の戦いで、武蔵と相対した燕返しの剣豪。
あの小次郎の長太刀を思わせる、恐ろしいほどの長さをした卸し庖丁。
前掛け姿の男達は、丸々と太った鮪を相手に長身(ながみ)の庖丁を巧みに操る。

「まあじき正月だで、一年でも一番忙しなる季節だわさ」。
「親父が勝って名前だったで、屋号も魚勝だて」。
元々中川区下之一色の漁師町に生まれた父は、叔父の魚屋で修業を積み、昭和二十七(1952)年に独立し、柳橋市場に店を構えた。
清和さんは昭和三十(1955)年、この家の長男として誕生。
「この子が小さい頃は、鮪も生ばっかだったて」。中落ちを指先で器用にこそぎ落としながら、母和子さんが大仰に笑った。
「そんでも昭和三十四(1959)年頃からかなあ。技術が進んで冷凍物が入るようになって来たんわ。カチンコチンに凍った鮪を、斧(よき)で丸太みたいに卸とったもんだわ」。母は懐かしげにつぶやいた。
「まあ今は、丸太を製材する電鋸で解体してまうけどなぁ」。清和さんが母の言葉を引き継いだ。
下之一色に生を受けた男の務め。いや、心意気とでも言うべきか。清和さんも子供の頃から、太物屋を生業(なりわい)とする両親の背中を見て育ち、当然の事の様に家業を手伝った。
「商売って現金が飛交うもんだで、それが子供ながらに興奮してまうんだって」。毎日がサザビーズのオークションさながらだった。
清和さんは東京の大学へと進学。
飛騨金山出身で音大に通う一つ年下の妻、裕子さんと巡り会う事に。
二人は昭和五十七(1982)に結ばれ、翌年三代目として店を支える長男武志さんが誕生した。
清和さんは、早朝三時に起床し中央卸売市場へと向かう。
まずは競りを前に鮪の下見。
「尻尾が切ってめっくったるで、生の鮪はナイフで切って食感や身の質を確かめたるんだわ」。
五時からの競りで仕入れ、六時には店へ。
仕入れた鮪を、その日の客の注文に応じて卸す。
親子三代の作業は、午後二時頃まで続く。
「そのかし夜の九時には、もう寝とるって」。清和さんは笑い飛ばした。
スリランカ・バリ・グアム・パナマ・台湾から、鮪は日本の食卓を目指す。
「昔は鮪を食べるのは、日本人だけだったって。そんでも最近では、世界各国でも鮪の美味さに目覚めてまったし、捕獲量も規制されるで大変だて」。
大間の黒鮪にインド産の南黒鮪、そして一般的な赤身の黄肌鮪。
一日に多い時は、冷凍物六本に生五本の鮪が、腹の上下、背の上下と四ツ割りに捌かれる。

「一流の鮨屋とか料亭は、一番相場の高級品を値段も聞かんと買い付けてくんだで。永年の信用だて」。
既にこの道三十年。
だが、冷凍物の競りでは、未だに当たり外れもあるとか。
「鮪なんて一本一本違うんだで、安く競り落としたもんでも大当たりが出ることもあるんだで」。
太物屋の大将は、何とも太っ腹な笑い声を響かせた。
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あ〜 こういう専門店で買った鮪は 一味も二味も違うんだろうなぁ〜。
想像しただけで 生唾ゴックン!って感じ(笑)
スーパーで見かける鮪もいろいろだけど 結局 真横から見てスジの無い鮪と あと値段と相談しながら買うしかないのだ。
売れ残りっぼい時は 漬け鮪にしちゃうことが多いです( ◠‿◠ )
お値打ちなマグロでも、お醤油と酒に浸けて、2日ほどチルドに入れておいて、マグロの漬け丼にすると、熟成してマグロがマイルドで照りが出て、とってもネットリして美味しくなるものですよ!
二日も漬け込むの〜⁈
いつも せいぜい半日だったから。
今度トライしてみますね( ◠‿◠ )
ぜひともお試しくだされ!
今晩は。
太物屋のお話ですね。
写真の鯛 美味しそうですね。
お魚屋さんですね。