今日の「天職人」は、名古屋市中村区椿町の「刺子師」。(平成十八年十一月二十一日毎日新聞掲載)
ズボンの膝の綻びは 野球小僧の勲章だ 母は端布(はぎれ)で一工夫 ボール模るアップリケ チームのSの頭文字 「帽子に刺繍してして」と 母に夜鍋をせがんだら 文字が反転大騒ぎ
名古屋駅をわずかに西に入った椿町。昭和十一(1936)年創業の寺崎刺繍店。二代目刺子師の寺崎勇さんを訪ねた。

南に向いた窓から、晩秋の陽が差し込む。
刺子師は陽射しを背負い、寡黙に指先で針を運ぶ。
金色の絹糸が陽射しを跳ね返し煌めいた。
「金や銀の糸で光が乱反射するもんだで、眼が悪なるんだわ。まんだ背中越しの自然光はええけど、蛍光灯の明かりだとかん。だで夜の作業は、肩越しに裸電球を照らしてやるんだて」。勇さんは眩しそうに目を細めた。
昭和十五(1940)年、九人兄弟の三男として誕生。
中学を出ると、木材工業新聞社に入社。広告取りから記事の取材まで、多忙な毎日が続いた。だが昭和三十九(1964)年、出火で新聞社は全焼。
「親父も年だし、眼が悪くなってきたで」。二十四歳で家業を継ぐことに。
「上二人の兄貴らは、刺繍なんてまったく興味もあれせんかった」。
最初はもっぱら、使い走りの表周り。
「親父が若い頃は、半衿に家紋の刺繍とかが中心。でもそれからは、校旗や講堂の緞帳や袖幕に『○○百貨店贈』とかって、文字とか校章を刺繍する大物の時代だわさ」。
家業に戻ったその年、紀伊長島出身の栄子さんと結婚。二男一女を授かった。
「新聞社時代に通っとった喫茶店に勤めとったんだわ。毎朝取材に行く前に、必ずその店でコーヒー飲んどったで」。勇さんは、懐かしそうに照れ笑い。
「小っさい頃から親父の仕事見とったでなぁ。一ヵ月もかかって、お寺の本堂借りて御園座やCBCホールの緞帳に刺繍しとったわ。そんなもん一生もんだで、刺子師にとっちゃあ、こけら落しが晴れ舞台だわさ」。

ベッチンやフエルトにパルコといった布地に障子紙で裏打ちし、金糸を裏から表へ。表面は真っ直ぐに縫い上げるが、裏側はジグザグ。金糸は表裏で、行きつ戻りつを果てしなく繰り返す。

「まあとにかく根気だけだわさ。一針一針に魂を宿すように」。
左手の中指、第一関節にはめた指皮で、針を一気に押し込んだ。

「丸金は艶がええけど細っそいもんで、真っ直ぐに縫うのが難しい。それに比べ、金糸を縒(よ)った縒り金は、丸金よりも太っといで誤魔化しが利くんだわ」。

馬と呼ぶ木枠だけの刺繍台。生地を張った中枠を乗せ、針先の運びに合わせて自由に向きを変える。
生地の上の四角い糸巻きは、むやみに転がることもなく、運針の進みに身を委ねる。
上がり富士を縫い上げた家紋の刺繍。
よく見れば金糸の縦糸と交わる様に、所々に細い赤糸が横たわる。
「ぜんざいの塩みたいなもんだって。赤の横糸で金糸を押えたると、ええ翳りが出るんだわ」。遠目にはまったく気付かぬ赤糸。何百本と縫いこまれた金糸の川を、まるで堰き止めでもするかのように、金糸の起伏を波立たせる。
「年数なんてキリにゃあって。一人前になるまでには、眼が悪なってまうで」。

老刺子師は筆を針に持ち替え、金糸を墨に晴れの日の舞台を彩る。
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おはようございます。
刺子師のお話ですね。
刺子師さんが見えるのですね。ブログで、勉強になりました。
刺繍を、する方なのですね。
刺繍綺麗ですね。
緞帳の刺繍って艶やかですよね。
やっぱり金色が目立ってますよ。
お芝居などを見に行った時 まず席に座ると緞帳のきらびやかな刺繍模様に目がいき ドキドキが始まる感じ…( ◠‿◠ )
全てが手作業だなんて… 頭ま目もクラクラしちゃう(笑)
そう言えば 小学校の時に手芸クラブに入ってて よく刺繍をしてました。
今でも興味はあるけど 問題は老化した目なんですよね〜。
そうなんですよねぇ。
老眼は日に日に進む一方で、ぼくも弱ったものです!
見ているだけで、肩が凝りそう!
そう言えば、この前、何年振りかで
マッサージに行って来ました。
マッサージ機もイイけど
やはり人の手に勝るものはありませんねぇ⤴
日に日に、身体が硬くなって・・
やっぱ!歳かね~~ぇ⤴
そりゃあ、肩が凝るなんてぇもんじゃないですって!
針を何度手に刺してしまうやら!
なんせ老眼には不向きですよねぇ。落ち武者殿!