今日の「天職人」は、名古屋市中村区名駅の「食器屋主人」。(平成十八年十月三十一日毎日新聞掲載)
欠けた茶碗のお下がりに 泥の団子を盛り付けて 蜜柑の箱を卓袱台に 女房気取りのオマセさん 「お風呂それともビールがいい」 女房の声に振り向けば 湯浴みの髪を片方に 垂らすあの日のオマセさん
名古屋市中村区名駅、食器の三輪。二代目店主の高岡勇次さんを訪ねた。

「ごっつおさん!」「また明日な!」。
店先に気さくな声が飛び交う。
ソファーを我が物顔で占拠していた、先代からの馴染み客が席を立ちつぶやいた。「毎朝寄らんと、気い悪なるでな」。
午前八時三十分。名古屋駅前、柳橋市場の朝に一息吐く瞬間が訪れる。
店先に渦高く積まれた瀬戸物。
軒先には、暖簾代わりの急須が垂れ下がる。
「市場に仕入れに来る皆の、茶飲み場みたいなもんやろ」。勇次さんは、手馴れた手付きでインスタントコーヒーに湯を注いだ。
勇次さんは昭和三十四(1959)年、店の創業と同時に瀬戸市で産声を上げた。
「親父は土建屋を辞め、仲間三人と店始めたらしい。三人の輪という意味を込め、食器の三輪らしいわ」。
やがて店の切り盛りは、先代夫婦に委ねられた。
高校を卒業すると同時に、東京は築地市場の場外で、漆器と陶器の販売を学んだ。
「まあ一遍、他所飯食って来いってことだわ」。
修業という大義名分を背に、仕事を終えると赤阪のディスコへと繰り出し、大音量で流れるソウルトレインの曲に合わせて青春を謳歌した。
昭和五十五(1980)年、母の発病で急ぎ帰郷。
「小さい頃から、家を継げ継げって言われとったでな」。
実家の瀬戸で焼き物を仕入れ、毎朝まるで朝陽に追われるように、父と二人柳橋市場へ。やがて母も病が平癒すると、再び店に立った。
「あの頃は親子で愉しかったわ。そりゃあ喧嘩もしょっちゅうやったけど。四六時中一緒におるんやで」。
何時かは訪れる別離を知ってか知らずか。
昭和五十九(1984)年、春日井市出身の真奈美さんを妻に迎えた。
「友達と越前へ海水浴に行って、そいで女房に見初められちゃった」。勇次さんは照れ笑い。どうにも嘘が下手な証だ。
夫婦は一男二女を授かった。
結婚の翌年には、名古屋市北部市場にも店を広げ、勇次さん夫婦が担当し何もかもが順風満帆に。
しかしそれもわずか一年半で、店を畳む憂目に見舞われた。
「母の癌が再発してまって」。そのまま六十歳の若さで還らぬ人に。
昭和を色濃く引きずる、柳橋市場の通路。
両脇には種々雑多な店が建ち並び、まるで小さな町のよう。
「商品の数なんてわっからへんて」。勇次さんの言葉通り、足元から天井までビッシリの商品。
鮨屋用の湯呑から刺身・焼き物・天麩羅用の盛り付け皿、それに茶碗蒸器や土鍋と小鉢に抹茶茶碗まで。

「まあ一般の方のチョコチョコ買いから業務用までやで、何が売れるか千差万別でさっぱりわからん。だで、高級品ばっか置いとってもかんし、安物ばっかでもかん」。
まるでここは、小さな瀬戸の町。
ついそんな錯覚に陥る。
時を忘れ隈なく覗き込む。
想わぬ掘り出し物への期待に、胸が高鳴る。
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おはようございます。
・食器屋主人のお話ですね。
・色々な種類の食器がおいて有りますね。
・個人の方からお店をやっている方が買いに来るのですね。問屋さんで、買うので安く買えますね。
・私は、食器屋さんで食器を、買った事が有りません。100円ショップ,ホームセンター,ニトリ等で買います。
食器って
我が家では割らない限り、新しい器を買うなんて事はありません!
オシャレな器なんて無いし!
一度、名古屋のノリタケの森へ行った事があります。
まぁ~⤴目ん玉飛び出るような高価な器ばかり
どっかの腹黒い政治家が買うんでしょうねぇ!
同じ腹黒くても、あたしの場合ただ!腹黒いだけだから・・
確かに確かに。
でも、お金の多寡とか、デザインの斬新さなどではなく、「あっ、このお皿を買ったら、あんな料理が似合いそうだなぁ」って、ぼくなんてついつい思っちゃいますぅ。
お店で食器を見るのは大好きです。
どうしても和食器に目が行きがちですけどね( ◠‿◠ )
数年後 古い食器を処分して 自分のお気に入りの食器を集めてみようかな!
器はお料理に負けぬほど、美味しさを惹き立てる重要な脇役ですものね。