今日の「天職人」は、名古屋市昭和区の「人形焼職人」。(平成十七年十月四日毎日新聞掲載)
巨人大鵬卵焼き どれもぼくらの好物で 朝も早よから相撲取り 日が暮れるまで草野球 市で賑う参道に 仄かに甘いカステーラ 人形焼の一番は 王のバットでホームラン
名古屋市昭和区の小判堂、三代目人形焼職人の石浜政雄さんを訪ねた。

「夏は暑て暑て。えらいばっかり」。 白衣の正雄さんが苦笑い。
小判堂は明治四十(1907)年に同市中区で、政雄さんの叔父が創業。父が二代目を継いだ。
政雄さんは昭和七(1932)年、七人兄弟の二男として誕生。時代は、戦争の渦の中へ。
「当時は、軍艦や戦車、それに戦闘機形の人形焼に、人気があったんでしょうな」。政雄さんは、先代が遺した鋳物製の鏝(こて)を見つめた。

悪化の一途をたどる戦局と食糧事情。配給制の前に止む無く休業へ。
政雄さんが小学六年生の年、一家は岐阜県養老町へと疎開し、そのまま終戦。
中学を出ると農業に従事し、父と共に小判堂の再興を期した。
昭和二十九(1954)年、縁者の世話で現在地にて店を再興。「当時は静かな町でね。夜音がすると言えば、興正寺の鐘の音と、夜回りの拍子木くらい」。
二十二歳になった政雄さんは、父の鏝捌きに学んだ。「手先の呼吸で焼くんだわ」。店も再興し、幼い兄弟を支えようという矢先、母が四十八歳の若さで急死。末の妹は、まだ小学五年生だった。
しかし政雄さんは悲しみに暮れる間も無く、鏝を握り続けた。
人形焼の材料は、卵、小麦粉、砂糖。それを三同割(さんどうわり)で混ぜ合わせ、後は型に流し込んで焼き上げるだけ。

昭和四十三(1968)年、妹婿の紹介で真澄さんを妻に迎え、翌年一人息子が誕生。父はまるで孫と入れ代るように他界。
「一生職人として。亡くなる直前まで、人形焼いとったでね」。
高度経済成長期を迎え、興正寺参道の市には、参拝者が溢れ人形焼も飛ぶように売れた。「売れて売れて。ご飯も食べずに焼いて焼いて」。政雄さんは、懐かしそうに妻を見つめた。
一つの鏝で九個。二時間で約七百個を焼き上げ、またタネ作り。それを一日四~五回繰り返し、約三千個とか。
「『おじさんの人形焼の味、我が子にも食べさせたいから』って、買いに来てくれたり、老人ホームに入った方が、よう買いに行けんでと言われて届けに行ったり」。

明治・大正・昭和・平成。庶民に仄かな甘さと、幸せな風味を届け続けた老人形焼職人夫婦が、初秋の風のように何とも爽やかで、そして穏かな笑顔を向けた。
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おはようございます。
・人形焼職人のお話ですね。
・(写真)人形焼美味しそうですね。
・私は、人形焼好きです。美味しいですね。
・石浜さんの人形焼のリピーターが、いるのですね。
わぁ〜い、人形焼だぁ!
餡あり、餡なし、どっちも好きで〜す。
小判せんべいって、カステラ焼のようなものでしょうか。こちらも大好きです。
食べはじめると止まらない罪なオヤツですね。
今度、是非お店に行ってみたいでーす ♪
(^。^)
甘い物って、心が優しくなるからいい物ですよねぇ。
甘党な人集まれェ~~ェ⤴
渋めのお茶で「モグモグタイム」
いいねぇ~~⤴
その為には、コロナウイルスの終息が・・
ですよねぇ!
☆モグモグタイム ☆
甘いのも & アルコール も いけまーす
(^-^ゞ
珈琲にケーキ で 皆さんと おしゃべりしたいですね ‼️‼️
東京に行くと必ず人形焼き 買って帰りますよ ~ やさしーいお味ですよね
(o^・^o)
こってこての味付けじゃない、そのシンプルさが、ついついもう一つって手が伸びちゃうんですよねぇ。
ハ〜イ! 和風甘党の私も参加した〜い!
「モグモグタイム!」 ぜひぜひ!
人形焼きって 仄かな甘みで口当たりもよくって 飽きがこないんですよね。
渋めのお茶を飲んではパクリ また お茶を飲んではパクリ…
ついつい食べすぎちゃう( ◠‿◠ )
素朴な味だから、ほっこりしちゃいますよねぇ。