「天職一芸~あの日のPoem 159」

今日の「天職人」は、三重県東員町の「山田の凧師」。(平成十七年九月二十七日毎日新聞掲載)

山田の凧の飛行機が 北風受けて空を舞う         神を詣でる人波を 見下ろすように悠々と         ぼくらは夢を詰め込んで 力の限り田を駆けた       誰より高く舞い揚がれ 異国の町へ連れて行け

三重県東員町の『山田の凧師』、山添勇さんを訪ねた。

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「うっかりしとってさ、まだ一時間あるもんと、勘違いしとったんやさ。まあ入って」。玄関先でズボンをずり上げながら、勇さんは照れ笑いを浮かべた。

山田の凧とは、三重県伊勢(山田)地方に江戸末期から伝わる、幅約九十㎝、長さ約百二十㎝もある勇壮な飛行機型の立体凧だ。昭和の始め頃に、隆盛を極めたものだとか。

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しかし高度経済成長の恩恵と引換に、手作り玩具はその姿を消し、昭和の後半には凧職人すらこの世を去った。

「正月になると飛行機型した山田の凧が、裏山を背にして悠々と、いくつも空を舞っとったもんやさ。家は子沢山の貧乏やったで、買うてもらえやんだけど」。

ところが十一年前。生家の蔵の中から、甥が遊んだという骨の折れた山田の凧が出現。

勇さんはその復元を果たそうと、無手勝流の凧師の道へ。

勇さんは昭和九(1934)年、伊勢市の農家に誕生。

中学を上がると農作業を手伝いながら県立伝習農場に入学。十八歳で家畜の人工授精士免許を取得し、家畜の交配に明け暮れた。

「毎朝一杯貰える牛乳が、唯一の楽しみやったんさ。先生から『ちゃんと噛んで飲めよ。水みたいにガブガブ飲んだら勿体ない』って。半分だけそのまま飲んで、半分は味噌汁ん中へ入れたり、ご飯にかけたり」。牛乳はまだまだ高価な時代だった。

それから二年後。「乳牛の交配用に支給された種が、間違っとったんやさ。黒和牛の雄が生まれてもうて」。その事故で嫌気がさし、農協に職を求めて商業高校の夜学にも通った。しかし翌年には、幼い弟や妹を遺し父が他界。

その年、勇さんは二十一歳の若さで食料品店を開業し、同郷出身の故・敏枝さんを妻に迎え、三人の子供を授かった。

「昭和も五十(1975)年代に入ると、大型スーパーの出店で、商売上がったりやわさ」。四十六歳の年に止む無く店をたたみ、商売敵の大型スーパーへと就職し、東員町へと移り住んだ。

「十七年ほど前やろうか。浅草の参道で、歌舞伎の隈取を描いた、江戸凧を土産に買うて」。それから和凧への感心が、心の中で広がった。

「後五年もしたら定年だ」。いつしか定年後の生甲斐を、和凧作りに求め始めていた。全国各地に伝わる伝統的な和凧から、勇さんが考案した家紋が図柄の家紋凧。

「せやけど、どれも小さいですやろ。大きいと『邪魔や』言うて、二ヶ月前に亡くなった女房によう叱られましたんさ。それでしかたなしに、小さなミニチュアに」。

どれもトランプ一枚分ほどの大きさだが、飾り物としては最適だ。

そして十一年前。生家の蔵の中から「山田の凧」が。子供時分には高価すぎて、手にする事も出来なかった凧と、半世紀ぶりの運命的な出会いとなった。

檜の骨の一部が折れ、日の丸を描いた美濃和紙が色褪せていたものの、復元作業に支障は無い。

勇さんは慎重に分解し、設計図に詳細を描きこみ、傷みの修復を終えた。

「念願だった山田の凧は、揚げてみましたか?」と、問うてみた。

「揚げて破ったったら代わりがないで、本物はよう揚げやんのさ」。

凧揚げは、二人一組。一人が飛行機凧を抱え、風に向って走り、もう一人は糸を操る。

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「もう今し、空き地がのうなって、なかなか飛ばせやんさ。でも上手い事風に乗ったら、二百~三百mは揚がるんやで」。

「女房がもう一年生きとったら、金婚式やったんさ」。凧師がコトリとつぶやいた。

妻と二人の、旅が夢だったとか。

ならば一人きりの金婚式に、山田の凧を揚げてみてはどうだろう。伝えきれなかった凧師の想いを、彼岸の岸に佇む妻に、きっと届けてくれることだろう。

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投稿者: okadaminoru

1957年名古屋市生まれ。名古屋在住。 岐阜県飛騨市観光プロモーション大使、しがない物書き、時代遅れのシンガーソングライター。趣味は、冷蔵庫の残り物で編み出す、究極のエコ「残り物クッキング」。 <著書> 「カカポのてがみ(毎日新聞社刊)」「百人の天職一芸(風媒社刊)」「東海の天職一芸(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸2(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸3(ゆいぽおと刊)」「長良川鉄道ゆるり旅(ゆいぽおと刊)」

「「天職一芸~あの日のPoem 159」」への9件のフィードバック

  1. 民芸品のような凧は作れんけど、四角いタコなら竹を削り障子紙に合わせてノリで貼ってと工作が好きだったからよく作って遊びましたよ。直しながら遊んで上がらくなったら風呂の焚付に使ったりしてました。竹を薄く細く削るのが難しいのよね。

  2. おはようございます。
    ・山田の凧師のお話ですね。
    ・山田の凧は伊勢地方に伝わる凧なのですね。知りませんでした。
    ブログで、 勉強になりました。
    ・最近凧上げを、実際にしている所を、見た事が有りません。TVで、見る事は、有ります。
    ・私は、子供の頃,大人になってから凧上げを、した事が有りません。

  3. 小さい頃 お正月近くになると 手先が器用な父親が凧を作ってくれました。まだ電線も少なかったので 自宅前の畑で走り回って凧をあげてました。
    良い時代だ〜( ◠‿◠ )
    山田の凧なるもの お初です。
    それも飛行機型。目立つ〜カッコいい〜
    山田の凧が風になびけば きっと奥様も風とともにご主人に微笑んでるはず( ◠‿◠ )
    ちゃんと見てらっしゃいますよ。

  4. 凧と言えば、以前テレビで見た喧嘩凧を一度ナマで見てみたいものです。テンションが上(揚)がっちゃうんだろなぁ⤴️

  5. 飛行機型凧
    イイですねぇ~⤴
    風の吹くまま・・
    あっちへゆらり・・こっちへゆらり・・
    あいつは、糸が切れた凧のようだぁ!
    なんて言われないように、地に足をしっかりつけて!
    若い頃は、今日はA子、明日はB子とフラフラ⤴
    彼女が日替わりで変わるなんて、
    今となっては夢のまた夢!
    そう考えると、少しは地に足がついたのか?

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