「天職一芸~あの日のPoem 155」

今日の「天職人」は、岐阜市金町の「西洋洗濯女」。(平成十七年八月三十日毎日新聞掲載)

帰省列車に一張羅(いっちょうら) 初めて向かう母の郷  精一杯のおめかしも 郷への土産母の見栄         呑めや唄えの盂蘭盆会 従兄弟と共に悪ふざけ       遊び疲れて気が付けば シャツに大きなスイカ染み

岐阜市金町(こがねまち)で明治四十三(1910)年に創業された、杉山クリーニング店の三代目女主人、杉山由紀さんを訪ねた。

写真は参考

「ポケットの中には、人それぞれのドラマが詰め込まれとるんやて」。由紀さんは、暖簾のように吊り下がる洗濯物を掻き分け、大きな丸い眼を子供のように輝かせた。

「西洋洗濯&プレッシング」と書かれた創業当時の看板。「クリーニングと言う言葉さえ、まだまだ一般的ではなかった。

創業者の祖父自身であったか、或いは親類のいずれかが、外洋船の寄港地として賑う函館で、クリーニングの技術を取得し、開業に至ったものだとか。

「家の西側が、昔の金津の遊郭やったんやて。祖母が大八車引いては、お女郎さんの着物から長襦袢まで集めて回っとったらしい」。

由紀さんは、三人娘の長女として昭和二十五(1950)年に誕生。短大卒業後、一年間だけ家業を手伝い、東京でテキスタイルの専門学校へ入学。

「二年目に父が肝硬変で倒れて、医者から後五年の命だって宣告されたんやて」。

長女に生まれた定めは、学業への志と淡い夢を打ち砕いた。

帰郷後は、母と三人姉妹が家業の窮地に立ち向い一致団結。父は一命を取り留めたものの、養生と闘病の日々が続いた。

「私の生まれる前からいた番頭さんが、よう間に合う人やって助かったんやて」。

由紀さんが二十七歳を迎えた元旦。医者から宣告された余命を一年残し、父は脳梗塞で倒れ還らぬ人に。いよいよ持って、跡取りの自覚と、二人の妹を持つ姉としての重圧が、由紀さんの肩に圧し掛かった。

「気晴らしに出かけるスナックに、バスケのチームがあって、そのメンバーになったんやて」。仕事を終えると、仲間たちと夢中でボールを追いかけた。その中の一人の男が、いつしか由紀さんの送り迎えをするように。「アッシー君やて」。由紀さんは笑った。

三年近くの交際を経て、男は杉山家に婿入り。「一番下の妹を、先に嫁がせんとって、そればっかり気にして」。己の幸せよりも、末の妹の幸せを優先し、由紀さんは三十二歳になって、白無垢に袖を通した。やがて二人の男子に恵まれ、クリーニングの裏方を夫に委ね、由紀さんは今日も近隣の得意先へと集荷に駆け回る。

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「『ワイシャツ一枚のクリーニング代は、コーヒー一杯分や』って言うのが、父の口癖。家は、今もそれを守り通しとるで、他所の倍近い料金なんやて」。

それでも羽島市や下呂町の遠方からでも、わざわざ「良い物だけは」と客が訪れる。

クリーニングで気を使う作業は、取れそうな釦とポケットの確認。

「家のお客さんは、貝釦が多いんやて」。欠けていれば、買い置きの釦と無料で付け替える。

ある時持ち込まれた、高級ブランドの女性用スーツ。恐らく初めから、釦は取れていたという。

「直ぐにデパートへ飛んで行って、ブランド物のボタンを取り寄せたんやて。お得意さんやで、また無くすといかんし、もう一つ余分に取り寄せてね」。

それともう一つは、ポケットの中身の確認と掃除。時には、糸屑や埃に混じって思わぬものも現れる。ラブレターや給料明細だ。背広の内ポケットからは、イヤリングまで。

「普通ポケットの中のものは、封筒に入れてお返しするんやけど、さすがにラブレターはねぇ。奥さんに見つかったらコトやて」。全てを杓子定規に捉えて、持ち主に返すばかりがサービスではないとか。「お客さんの身になって判断せんと」。

店番をしている、妹の隆子さんに向かって、優しく笑った。

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秘密の隠れ家、内ポケット。

そっと仕舞いこんでおきたい、喜びや哀しみの欠片(かけら)。

誰にだってきっと、一つや二つはあるものだ。

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投稿者: okadaminoru

1957年名古屋市生まれ。名古屋在住。 岐阜県飛騨市観光プロモーション大使、しがない物書き、時代遅れのシンガーソングライター。趣味は、冷蔵庫の残り物で編み出す、究極のエコ「残り物クッキング」。 <著書> 「カカポのてがみ(毎日新聞社刊)」「百人の天職一芸(風媒社刊)」「東海の天職一芸(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸2(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸3(ゆいぽおと刊)」「長良川鉄道ゆるり旅(ゆいぽおと刊)」

「「天職一芸~あの日のPoem 155」」への12件のフィードバック

  1. クリーニングが有るのを知ったのは中学生になり制服をクリーニングに出すようになってからです。それまでは少し汚れてもお構い無しに走り回っていましたからね(笑)。制服を着るようになって少し周りを意識しかけてる時かな

    1. ぼくん家なんて、衣替えの時にしか、制服はクリーニングに出してなんてもらえず、毎晩布団の下にズボンを敷いて寝押ししたものです。
      しか~し!
      あまりの寝相の悪さで、折り目があっちむいてほい状態でしたぁ!

  2. おはようございます。
    ・西洋洗濯女のお話ですね。(町のクリーニング屋さんですね。)
    ・クリーニング屋さんの仕事 色々な仕事(染み抜き,釦付け等)が、有るのですね。
    ・杉山さんのお店は、遠方から来るリピーターさんが、見えるのですね。
    ・クリーニングは、ブラウスを、頼んだ事有ります。 オプションで染み抜きコースを、頼みました。基本料+染み抜きコース代支払いました。ブラウスは、綺麗にクリーニングされていました。シミも綺麗に取れていました。

  3. 杓子定規ではない お客様に寄り添っている職人さん。
    そうそう!  そういう想いって必ずお客様に伝わり お客様に守られて引き継がれていくんですよね。
    秘密の隠れ家 内ポケット。
    思わず笑ってしまいました。私にも覚えがあるので(笑)
    今でも エプロンのポケットは秘密の隠れ家かも。 中身は内緒!

    1. ええっ、何だか意味深だなぁ!
      ちなみに家のお母ちゃんの割烹着のポケットには、チリ紙がたたんで入っていたものです。
      一度鼻をかんだらひっくり返して、また使うといった塩梅で、チリ紙2~3枚を4回分ほどにして使っていたものです。
      そうやってお母ちゃんは、いつだって節約を心掛けていたんでしょうねぇ。

  4. 今は、けっこう何でも家の洗濯機で洗っちゃいますが、やはり『良い物だけは』クリーニング屋さんに出します。だって、失敗したら大枚叩いて買った物も‘水のアワ’ですからね(^_-)

    1. クリーニング屋さんも様々ですから、良い物を安心して出せるお店を見つけておかねばいけませんよねぇ。

  5. クリーニングで思い出すのが
    30代の頃「なごやンさん」と同じで
    お気に入りの服はクリーニング店に出してました。
    近所の人が「プレハブ」で作ったお店を開店したので
    近所のよしみで出していました。
    ある日、店のおばさんが青い顔して家に来て少し経ってから
    パトカーがやってきて・・!
    何でも「泥棒」が衣類を根こそぎ、盗っていたらしく!
    私も、2回位しか着てない「ジャケット、チノパン、セーターetc」
    7~8万程、やられました。
    けど、おばさん曰く「保険」に入っていたので、取り敢えず、
    良かったそうです。
    でも、私のお気に入りの服は、同じ物が二枚売ってなくて
    結構!ショックでした。

    1. いやいや、それはお気の毒なことで!
      しかし変わった泥棒ですなぁ!
      選りによって、そんな新品じゃないセコンドやサードの、しかも落ち武者殿が袖を通されたものまでお持ち帰りになるとはぁ???

  6. そうでした そうでした ‼️‼️
    お父さんが亡くなり お姉ちゃんが後取りになられたんですよね~ ∥∥

    同じ徹明校区だったり ご縁があり、お客様として 私の実家にも来て下さってました
    ダンディーな おじ様でした (^_^)v

    私の父も おしゃれに拘りがある人だったので お出かけ着の 背広やスラックス
    、 オーバーコートは絶対にスギヤマクリーニングさんにお願いしていました (o⌒∇⌒o)

    私が 幼少の頃もお店の外観も店内のレイアウトも おしゃれでしたよ (#^.^#)
    確か 入って直ぐの所に モダンな小さい自転車が置いてありました~
    そうそう ‼️‼️

    今は 柳ヶ瀬再開発の為 あの一角が壁で閉ざされていますが どうなるのかしら?

    1. そうでしたか!
      お近くでしたものねぇ!
      再開発でまたあの辺りも一変するんでしょうねぇ!

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