今日の「天職人」は、三重県伊勢市の、「船番匠(ふなばんじょう)」。
勢田川口(せたがわぐち)の 船溜(ふなだ)まり 村の童が 声上げて 船蔵目掛け 駆け出した 今日は直会(なおらい) 船卸(ふなおろし) 船大将の 掛け声で 水主(かこ)が船手(ふなで)に お神酒撒き 伊勢の港に 漕ぎ出せば 朝日に映える 船標(ふなじるし)
三重県伊勢市、兵作屋こと出口造船所、十三代目の船番匠、出口元夫さんを訪ねた。

「家(うっとこ)の先祖は、海賊船造っとったんやさ。孫爺さんからよう聞かされよったでなぁ」と、元夫さんが潮焼けした赤ら顔で笑った。
創業は始祖「兵作」が船造りを始めた、一六五〇年代頃。徳川幕府第三代将軍家光の時代である。
元夫さんは大正13(1924)年に誕生。東京工学院造船科で学んだ。そして昭和19(1944)年12月、伊勢に戻ると召集令状が届けられた。出征祝いの宴の最中、空襲警報が!それでも電灯を笠で覆い酒宴を続行した。「明日の朝早(はよう)に出たらええ。一日(いちんち)でも家で寝て行け」。父は元夫さんとの別れを惜しんだ。
そして敗戦。元夫さんは無事に復員を果たした。すると誰よりも元夫さんの帰りを待ち続けた祖父が言った。「もうお前の顔見たで、いつ逝ってもええわ」と。その言葉通り、それから三ヵ月後祖父は安らかに息を引き取った。
戦時中、多くの漁船は軍に徴用され、敗戦後人々は空腹を満たすため、漁の再開を求めた。兵作屋は漁船の建造に沸き、棟梁の下、和船造りの厳しい修業が始まった。
元夫さんは材を求め、自転車を四時間も走らせ、宮川上流へと通っては、山を学び木を学んだ。「細かい年輪の赤身がかった朝熊杉は、曲げても折れやんでなぁ。逆に強風に晒されとる所の木は『揉め』言うてな、中が傷んどるんやさ。それを知らんと使こたると、淦(あか)が出る(浸水する)んやで」。樹齢百五十年、太さ七十センチほどの丸太を宮川に落とし、筏を組んで勢田川河口の船蔵へと運び、木挽(こび)きで引き揚げる。そして棟梁が板に十分の一の大きさで設計図を描き、それを頼りに船大工たちは鋸を引いた。

戦後の狂乱物価は、一隻二十五万円の漁船を、わずか一年足らずで百六十万円に跳ね上げた。「契約した時の金額は、材木代で終いやさ」。漁船需要も一段落した昭和25(1950)年からは、最後の和船時代を築いた団平船(だんぺいせん)と呼ばれる、伊勢特有の運搬船造りが始まった。しかしそれも昭和40(1965)年に入ると需要も激減。洋型船時代が到来した。
「和船の伝統を遺したいと、博物館の展示用に造らんか言う話もあるけど、船を陸(おか)に揚げてなとする?金捨てるだけやで。船は海原駆けてこその船やでなぁ」。元夫さんが苦笑い。

伊勢和船。最後の船番匠は三百五十年前(平成十五年五月二十七日時点)と、何一つ変わらず潮を打ち寄せる、伊勢の海原を見つめた。
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おはようございます。
・船番匠さんのお話ですね。
・出口さん 召集令が来てから職人さんの修行大変でしたね。
・材料(木材)によってやり方が、変わるので難しいですね。
・(材料)良い木材と扱いにくい木材が、有りますね。
・船も漁船から団平船から洋形船に、ニーズが、変わって行ったのですね。
・私は、船(漁船,プェリー,鵜飼の船等)に、乗った事ないです。 船旅を、した事が、有りません。
我が息子、「船の免許が欲しい」と水産高校へ。
ある日、「お母さん、お母さん、車はいらないから船買って!」と。
「船が置いてある所までどうやって行くの?」って聞くと「あっ、そうか!」だと。
その後、車は自分で買い、船は勤務先が。
あれあれ、でも結果夢を叶えられたってことですねぇ。
お見事、天晴れ!
へぇ~~⤴
なごやンさんの息子さん
船の免許!凄い⤴
私も昔、欲しかったんです。
波止場!波止場!に可愛いあの子!
「俺はしがないマドロスだぁ、海に出りゃぁ~いつ帰って?来られるか?わからねぇ~
だから俺には惚れるなよぉ~」
何てねぇ!
久し振りのショート妄想劇場でした。
こういった物を最初に考え造った方…
凄過ぎる。今みたいに いろんな物が揃ってない時代に。
それが代々引き継がれ十三代目。
造り方だけではなく きっと歴史や願いや想いも引き継いできたんでしょうから博物館の展示用に船を造るなんて 職人としての誇りが黙っていないでしょうね。
三重は九鬼水軍の本拠地ですから、造船に関する技も遥か昔から伝えられてきていたのでしょうね。