
受付で入場料を支払ってロビーに入ると、「青函ワールド」の序章を飾るような、等身大のジオラマの演出。青森港に青函連絡船が到着した時のように、津軽リンゴのお土産物屋さんが出迎えてくれました。
この時代は、まさに青函連絡船が就航したばかりの、昭和39年から40年代初頭の頃のイメージでしょうか?何だか癒されました!
それよりも何よりもぼくは、オーバーコートを着たオッチャンの横のTVモニターに映る、現代のオッチャンの画像が妙に気になって気になって仕方ありませんでした。
さあそれではご一緒に、八甲田丸の中を散策いたしましょう!

魚屋のオッチャンとオバチャンの表情が、とってもユーモラスです。確かに昭和半ばの頃はあっちでもこっちでも、今となってはこんな、すっかりセピア色に色褪せてしまった光景と出くわしたものです。そうそう、こんな感じで商いに勤しむ夫婦を、ぼくも目にした記憶があります。

これぞまさに、国鉄時代の鉄道遺産ですね。
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おはようございます。八甲田丸の中のお話分かりやすかったです。
りんごのお土産屋さんがお出迎え良いですね。青森らしいですね。色々なりんごが有りますね。
国鉄の鉄道遺産貴重品ですね。
魚屋さんのおじちゃんとおばちゃんの表情ユーモラスですね。 私は、昔(昭和半ば)の魚屋さんで、買い物してみたくなりました。
私が産まれた頃って こんな感じ⁉️だったんですね。
幼い頃 小さなトラックとかでお魚やお豆腐やパッカーン(ポン菓子の事をこう呼んでました) を売りに来てくれてたのは 覚えてますけど このお土産物屋さんのような景色の記憶はないですね。旅先のイメージかな。朝市のような…
それにしても モニターの隣に作らなくてもよかったのに(笑)
ぼくらも子供の頃は、ポン菓子とはよばずに、「パッカン」と呼んでいたものでした。
確かに仰るように、今でいう朝市のような露天の店が、青函連絡船乗り場の辺りに並んでいたのでしょうね。
でしょ!TVモニターのオッチャン、気になりますよね。
あれはマネキンだよね❓️お婆ちゃんが妙にリアルで露天で話ながら買った野菜、魚等は美味しいだろうな☺️
それとポン菓子の呼び方ですが私のとこは「ポンハゼ」と読んでましたよ。
大きな音ともに出来上がり。こちらでは出来上がったものに水飴をかけてくれましたよ。
ぼくらのパッカンは、生米を1合か2合と砂糖に一斗缶を持たされ、パッカン屋のオッチャンに10円だったかを支払って、パッカーンとやってもらったものでした。
するとオッチャンがバラバラになったポン菓子を、木製の枠に入れてその上から刷毛で水あめを塗って、確かお好み焼きで使う青海苔を彩で降ってくれていた記憶があります。
わたしの居た、梅林ヒルズもヒロちゃんと同じ「ポンハゼ」って言ってました。
おじさんがリヤカー引いて、路地へ来てカランカランと「ハンドベル」をならして、お客さんを呼び寄せていました。
そうすると、知らぬ間に近所の悪がき達が集まって、おじさんが「ポ~ン!!」ってやる度に
みんなで「キヤ~キヤ~ァ!ワイワイ]と言いながら楽しく遊んでいました。
悪がきの頃はなにやっても楽しかったなぁ~!
あの頃64歳になるなんて信じられなかった
まぁ~!残りわずかな人生、泣いて、笑って、楽しく、行くかなぁ~!
そうそう!
残りわずかな人生、泣いて、笑って、楽しく、いつまでも輝いていたいものですなあ。
って、立派な落ち武者ヘアーでいらっしゃいますから、これからも輝き続ける事間違いなしかあ(爆笑)
国鉄時代の鉄道遺産は鉄道マニアにしてはかなり貴重だしたまらんものだと思います。
そうですよね。
何もかもすべてがデジタルではない、アナログ一色の世界観ですもの。
「ザ・昭和」を感じます。
そう、
まさにこの雰囲気で。
大きな荷物を担いで行商されてました。
やっぱりいいなぁ、あの頃は・・・
戻ることが出来ないからこそ、愛しいものですねぇ。