毎日新聞「くりぱる」2004.12.26特集掲載⑧

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「熱田の森のお花屋さん」

とにかくすごい!

一週間のうち、金曜と土曜だけ開店する花屋。

写真は参考

セルフサービスで、どれでもみ~んな一束500円均一。

お客さんが自由に組み合わせる手法が、とにかく新鮮。

「売り切れてしまうと閉店です」。

この店で20年のパート歴を誇る、M.Yさん(55)の笑顔が素敵だ。

さらにレシート10枚で一束プレゼントという大盤振る舞いに、またしても仰天!

もっと驚きは、土曜の午後3時からは、二束で500円と言われてしまっては、もう返す言葉すら無い。

熱田の森のお花屋さん 熱田区神宮3 神宮商店街(2004.12.26時点)

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毎日新聞「くりぱる」2004.12.26特集掲載⑦

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「リサイクルショップM」

「失敗の連続!今思えば、プロの業者がパンプスを持ち込んで。デザインも可愛いからってまとめて仕入れたら、サイズが22.5㌢。今時の女性でそんな小さなサイズの人いないもんねぇ」。

何だかものずごく大らかな、M.Mさん(57)は、照れ笑い。

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開店から5年経ってやっと少し、物の値段もわかるようになったとか。

とにかく気持ちを大切にするリサイクルショップだ。

リサイクルショップM 熱田区森後町(2004.12.26時点)

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毎日新聞「くりぱる」2004.12.26特集掲載⑥

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「クラッシックカメラ」

終戦直後から13年間、カメラの修理屋で小僧として修業を積んだ、Y.Oさん(72)。

昭和34年(1959)の2月に、この地で開業。

しかしその半年後に伊勢湾台風が直撃。

「お客さんのカメラを2階の洋服ダンスに仕舞いこんで」何とか、水害からお客さんのカメラだけは守り通したとか。

写真は参考

筋金入りのカメラ修理職人だ。

今でも全国から、クラッシックカメラを求めたり修理にマニアが訪れる。

中でも圧巻は、ドイツのイコフレックスとか。

大橋カメラ店 熱田区神宮

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毎日新聞「くりぱる」2004.12.26特集掲載⑤

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「福サイフ」

「福がサイフに訪れますようにって、タネに金ぴかの5円玉が入れてあるの」。

昭和29年頃からこの店を営む、H.Hさん(84)は、福サイフを取り上げた。

写真は参考

春はサイフを新調すると、金運に恵まれるとか。

鞄から袋小物、そして福を呼び込む本革製の「福サイフ」まで。

一見何の変哲も無い革財布。

しかしH婆さんの半世紀以上の祈りは、まさに福を呼び込みそうだ。

本田商店 熱田区神宮(2004.12.26時点)

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毎日新聞「くりぱる」2004.12.26特集掲載④

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「焼きたてメロンパン ポポ」

香ばしく甘い匂いが商店街に漂う。

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店頭では焼き立ての、ほっこりしたメロンパンを団扇で煽ぎ、火照りを静める。

写真は参考

そして一つ一つメロンパンは、まるで生れて間もない赤ちゃんのように労わられ、深めの赤ちゃんを寝かせて持ち運ぶ、クーハンのような深い籐籠で保管される。

しかしその間も無く、次から次へとメロンパンの甘い薫りに惹かれ、客がやって来る。

「神戸元町ベーカリーまで直接出向き、そこでオリジナルに配合していただいた生地を使っています」と店長。

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一日限定の500個は、次から次へと羽根が生えたように売れてゆく。

焼きたてメロンパン ポポ名古屋1号店 熱田区神宮

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毎日新聞「くりぱる」2004.12.26特集掲載③

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「オカッパ頭と坊っちゃん刈り」

年末の床屋は大忙しだった。

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ぼくの小学生時代の、昭和40年代(1965-1970)前半は、誰もが同じ髪型だった。

特に小学校の低学年の頃は。

もっと山の手のブルジョアならともかく、ぼくの育った田舎町では、オカッパ頭の女の子、坊っちゃん刈りの男の子が、いたってスタンダードな髪型だった。

当時はよっぽどじゃ無い限り、男子も女子も床屋で髪を切り揃えたものだ。

だからクリスマスが終わってから、大晦日までの床屋は何処も大賑わい。

親も大掃除の邪魔とばかりに、床屋へ行って綺麗にしてこいと子供を追い出す。

今と違って電話で予め予約して、なんていう時代ではない。

とにかく床屋に入って、辛抱強く自分の番が来るまで、ひたすら待ち続けなければならない。

運悪くトイレに立った隙に、自分の番が回って来ようものなら、難なく次へと飛ばされる始末。

また当時の床屋は、今ほどお客様第一主義の店は少なかった。

客よりも床屋の主人や奥さんの、その日の気分が最優先だった。

しかも年末の繁忙期の、糞忙しい時など不機嫌極まりない。

今のような少子化の時代とは裏腹に、子供はいたるところにわんさかいた時代だ。

だから明らかな売り手市場。

次から次へと手際よく、オカッパ娘と坊っちゃん刈り少年が大量に仕上げられ、どの子も満足げに店を飛び出して来る。

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髪形に満足と言うのでは無く、長い順番待ちを終えた開放感からであろう。

でもぼくらはそうして、鋏が入ってから坊っちゃん刈りが完成するまでの、わずか15分足らずのために、日がな半日近くを無尽蔵に費やした。

「お正月は、身も心も綺麗にしてお迎えするんだ」と教えられ。

だから大晦日に、行く年来る年の途中で寝てしまった年は、何だか罪悪感に苛まれたものだ。

今年の大晦日は、昼寝して除夜の鐘に備えなければ。

子供の頃に染み付いた呪縛は、この年になっても解けようとはしていない。

10月号の沢村栄治さんと山口千万石さんのコラムを読んで、伊勢市明倫尋常高等小学校時代に、沢村さんと山口さんの後輩であったという、伊勢市中之町の村野正夫さんから、「大いに昔が懐かしく蘇りました」とお手紙をいただきました。

どうぞいつまでもお元気で、長生きをなさってください。

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毎日新聞「くりぱる」2004.12.26特集掲載②

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「熱田神宮界隈」

今回の「素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)」は、あと5日余りで初詣客に賑う熱田神宮周辺へ。

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年々正月気分が失われ行く昨今。

しかしこの町の何処かには、きっとまだ日本の正月らしさが、残っていることだろう。

大晦日の夜、母は決ってぼくの枕元に、まっさらのパンツとシャツに靴下を用意した。

我が家の家計の、景気の良し悪しは、そこに新品の上着とズボンがあるかないかで、子供ながらにおおよそ検討が付いたものだ。

元日の朝、父と母に手を引かれ、熱田神宮前の駅を降りると、晴れがましい初詣の正月気分も絶好調となる。

いや正確には、初詣に心がときめいたのではない。

運がよければ、いや母の機嫌が良いままだったら、帰り道の露天で、綿菓子やニッキのパイプが、買って貰えるかもしれないとの胸算用に、心が騒いだだけのことだろう。

写真は参考

しかしその前に一つだけ、どうにも怖くてたまらない箇所を通過しなければならないことを、ぼくは毎年の初詣で知っていた。

駅前から東門へと、人波に飲まれたまま道路を渡る。

狭い歩道のあちらこちらに、白い着物姿に軍隊の帽子を被った傷痍軍人の方々が、幸せそうに連れ立って歩く家族連れや、カップルを目で追うわけでもなく、ぼんやりとした視線を投げかけていた。

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中には戦争で片手や片足を失った方もいた。

ぼくは子供ながらに、何ともせつない想いで一杯になり、元軍人の方たちを正視することなど出来なかった。

戦地に赴き無事帰還できた父は、通りすがりに軽く(こうべ)を垂れ、ポケットからわずかばかりの小銭を、こっそり差し出していた気がする。

写真は参考

その一角を通り過ぎると、父は小声で必ずぼくに囁いた。

「あの人らが戦地で失のうた、手や足の犠牲の上に、今の日本の繁栄があるんや。ええか、忘れたらあかんのやで」。

幼かったぼくには、先の大戦の是非などまったくわからなかった。

ただ子供心に、傷付いた元軍人さんの姿と、戦争の悲壮さを焼き付けたものだった。

敗戦から今年で60年。

神宮脇の歩道に、もうあの傷痍軍人の方々はいない。

一人また一人と、昭和の歴史の中へと還られたことだろう。

今年の初詣もきっと、平和な日本に生まれた、戦争を知らない者達で賑わいを見せる。

そして誰もが、家内安全・恋愛成就・合格祈願と、身の丈サイズの幸せを神に乞うことだろう。

でもどうか忘れないで欲しい。

この国にもわずか60年前には、戦争があったことを。

そしてこの国を護ろうと、命を投げ出された人たちがいたことを。

ぼくも今年の初詣は、自己中心的なお祈りに併せて、戦争で犠牲になられた先達へのお礼も、忘れないでおきたいと想う。

さあそれでは、5日後の大晦日から賑わいを見せる、名古屋市熱田区の神宮界隈を、一足お先にのんびりと漫ろ歩いてまいりましょう。

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毎日新聞「くりぱる」2004.12.26特集掲載①

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「三味の(ばち)(さば)き」

「名古屋名物 美味(うみ)ゃあもんなら かしわにういろうにきしめんに 味噌カツ天むす海老フリャア」。

色艶やかな着物姿で、陰陽の風情を弾き分ける見事な三味の(ばち)(さば)き。

写真は参考

艶っぽさを浮かべた表情に、透き通る高音の美声。

『天は二物を軽軽しくも、与えたもうたというのか!』。

名古屋市千種区の民謡家、N.Kさん(57)のステージを拝見するたび、そう感じてしまう。

出来ることなら月明かりの元、盃を傾けながらほろ酔い気分のまま、しっとりと拝聴したいものだ。

冒頭の一節は、Kさんのライブに欠かせぬ「語り物」。

海の東海道と呼ばれ、熱田の宮の宿から桑名の宿まで、海上七里の道程を結んだ七里の渡し。

宮宿の当時の往来に想いを馳せながら、現代名古屋の風情を織り込んだ「名古屋名物」と呼ばれる語り物。

Kさんが作詞を手掛けた人気作品の一つ。

Kさんは、千種区今池の寿司屋のお嬢様として生まれた。

今でこそ全国から持て囃される「名古屋嬢」の、先駆的な世代の一人であったに違いない。

祖父と父の影響で、幼い頃から三味の音に囲まれながらも、西洋音楽を志しピアノの練習に明け暮れた。

高校3年の時、父親の誘いで民謡の会に連れ出され、三味線との運命的な出逢い。

「ドソドが『どびん』。『やかん』とか、父から口三味線で教わって。もともと音楽好きだったでねぇ」。

そんなある日、三味線を抱え持ち民謡の稽古へと向かった。

交差点で幼馴染とバッタリ。

「あんたあ!何処行くの?そんなん持って」と問われ、Kさんは「さすがに恥かしくて民謡とは言えず、『端唄だて』」と答えたとか。

時代はグループサウンズの全盛時代。

日本の古典的な民謡を、うら若き番茶も出花の18歳の娘にとって、口にするのも(はばか)られた。

短大卒業後は、家事手伝いと民謡のお稽古。

「大人になったら、長唄のお師匠さんになりたいなって」。

そんな矢先、父は名立たる津軽三味線奏者を、家に招いた。

魂を揺さぶるような、津軽三味線の荒く激しい音色が、Kさんの五感を釘付けに。

奏者が名古屋に滞在した1ヶ月間、無我夢中で「六段」の曲を習い奏法を学んだ。

再び某民謡会のお稽古へ。

「撥が違う!叩き方が違う!って師匠に叱られて。『そんな乞食三味線、何処で習って来た!』って、津軽三味線を邪道と考えるような、偏見を持っとったんだろうね。それでその民謡会には、嫌気がさして」。

その後もKさんは、津軽三味線に魅せられ続けた。

世界デザイン博に名古屋が沸いた15年前。

白鳥会場から堀川を下った、宮の渡しの町並みに、Kさんは興味を惹かれて行った。

やがて興味は、庶民の中で息づいた文化へと。

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「それで初めて、都々逸(どどいつ)発祥の地が、宮の宿だったと知って。どうやって出来たのか?誰が歌い始めたのか?って興味津々」。

宮の宿、東外れの八丁(なわて)入口。

寛政12年(1800)秋、蜆汁を売る鶏飯屋(けいはんや)という安直な茶店が出来、お仲やお亀といった女中が客を持てなしたとか。

その頃、関東から潮来節が流れ着き、お仲やお亀が盛んに替え歌として唄い広めた。

時を同じくして、神戸(ごうど)の町に大きな旅籠が開業し、東海道を行き交う旅人で賑わい、二人の替え歌はやがて神戸節(ごうどぶし)と呼ばれ、囃子言葉から「都々逸」に。

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『お亀買う奴 頭で知れる 油付けずの 二つ折れ そいつはどいつだ どどいつ どいどい 浮世はさくさく………』と、Kさんは口ずさんだ。

七里の渡しの常夜灯を背に、往時の伊勢の海原を見つめながら。

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弦を指で(さお)に押し付け、ゆっくりと左から右へと指を滑らせる「糸音(いとね)」。

奏者の含みと余韻を、聞こえないほど微かな残響音から聞き取る。

打指(うちゆび)」と呼ばれる奏法は、文字通り弦を指で打つ。撥で爪弾く音とも、微妙に異なる音色だ。いずれも閉ざされた座敷の、静けさ故になせる三味の技。

「人の心かなあ。消え入るように揺れる音が」。

一方の津軽三味線は、荒々しい撥捌きで、まるで厳寒の凍て付く夜を引き裂くように聞こえる。

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「がさつだけど、奥が深くて凍みるんだわ」。

『三味の種類に貴賎(きせん)などない』。

ぼくには、Kさんの心の声が微かに聞こえた気がする。

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毎日新聞「くりぱる」2004.11.28特集掲載⑩

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「チンチン電車」

何ともノスタルジックな響を持つ「チンチン電車」。

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かつては天下の大道を、我が物顔で走り抜けたであろうに。

今は難なく車に先を越される。

しかし何をそんなに急ぐことがあろう。

スローライフに脚光が集まるご時世。

チンチン電車でのんびりゆっくり。

これほど贅沢極まりない、至福の旅はない。

しかし岐阜の名物チンチン電車も、廃線の憂き目が取り沙汰されたが、海外資本で延命となるのか?(2004.11.28時点)

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毎日新聞「くりぱる」2004.11.28特集掲載⑨

素描(スケッチ)漫遊(まんゆう)(たん)

「彌八地蔵尊」

まるで岐阜の法善寺横町?って思ってしまう一角が、柳ケ瀬の繁華街にあった。

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無量寿院誓安寺境内に居並ぶ一杯呑み屋。

もともと芸者置屋の集まった花街で、大勢の人で賑ったとか。

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参道脇の赤提灯が、思わず左党を手招く不思議な(たたず)まいだ。

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