今日の「天職人」は、岐阜市日ノ出町の「お好み焼き屋主」。(平成20年12月2日毎日新聞掲載)
週に一度の楽しみは 小銭を集め土曜日に 連れと外食駄菓子屋で 婆さんが焼くモダン焼き 鉄板前に陣取って 一部始終に固唾呑む 一喜一憂豚肉の 行方を巡り右往左往
岐阜市日ノ出町のお好み焼き・鉄板焼き「正村」二代目主、正村秀一さんを訪ねた。

「♪雨の降る夜は 心もぬれる……♪」
ご存知名曲「柳ヶ瀬ブルース」。
その発祥の地、柳ヶ瀬劇場通り。
昼時や夕方には、あちこちの店から美味そうな匂いが立ち込め、漫(そぞ)ろ歩く客の袖を引く。
「お好み屋がお客さんに、お好み焼かせとったらかんて。そんなもん卑怯だわさ。お客さんを参加させて共犯にしてまったら、たとえ店の味が不味(まず)くても、お客さんは何んも言えんで」。秀一さんは、大声で笑った。
秀一さんは昭和27(1952)年に長男として誕生。
「昭和35年に父が、ここで店を始めたんやて。最初はスマートボール屋で、やがて大判焼き屋へ。それで昭和43年頃、家を建替えた時にお好み焼きに鞍替えたんやわ。あの頃は9時の開店から焼きそば食べに来る人らもおって、一日中てんてこ舞いやて。映画館が跳ねた夜10時頃までよう賑わってましたわ」。
大学卒業後は商社マンを夢見た。
しかし父の一言に脆(もろ)くも潰(つい)えた。
「お前なあ、大学出て給料いくらや?月12~13万と違うか?ほんなもん家なら日曜1日で稼げるわ」と。
まんまと父の口車に乗せられ、割烹料理店で板場修業に。
昭和54年に27歳で家業に戻り、その2年後、旧巣南町(現・瑞穂市)出身のみどりさんと結婚。
二男一女を授かった。
「あの当時は放っといても次から次へと客が来て、流れ作業で1日中お好み焼いとった」。
それが普通だと、次第に感覚が麻痺して行った。
「そのうち私が焼いた物を、家の子どもから『いらん!』って言われて。自分で気が付かんかっただけで、正直不味かったんです」。
時代は商店街から、郊外型の大型ショッピングセンターへ。
柳ヶ瀬全体の客足が減り、売り上げも年々下降の一途。
「現実を認めるまでに3年かかりました。このままでは廃業だって」。
ついに平成7年、材料卸の社長に相談した。
すると「やっとわかったんか!」と一喝。
「目から鱗(うろこ)でした。それから各地のお好み屋巡りして」。
ついに開眼。
秀一さんは父のソースも麺も、プライドも捨て「魂込めて自分が一番美味いと思えるものを作る」と決意。
今では客が店先に並ぶほどの繁盛店に生まれ変わった。
正村のお好み焼きの主力は広島風。

水抜きしたキャベツの食感が決め手。
まず生地を鉄板に敷き、カツオ粉を振りキャベツと天カスを四段重ね。
さらにモヤシと天カスを積み、カツオ出汁をかける。
次に肉を被せ水溶き小麦粉をかけ、上下を引っくり返して押し焼く。

それを別に焼き上げた焼きそばの上に載せ、さらに卵の上に移し変え、引っくり返してソース、青海苔、紅生姜を振れば完成。
「お客さんの『ここのは美味い』の一言だけが、心の支えやって」。
苦難の末にたどり着いた、正村自慢の庶民の馳走(ちそう)。
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