「天職一芸~あの日のPoem 300」

今日の「天職人」は、岐阜市日ノ出町の「お好み焼き屋主」。(平成20年12月2日毎日新聞掲載)

週に一度の楽しみは 小銭を集め土曜日に            連れと外食駄菓子屋で 婆さんが焼くモダン焼き         鉄板前に陣取って 一部始終に固唾呑む             一喜一憂豚肉の 行方を巡り右往左往

岐阜市日ノ出町のお好み焼き・鉄板焼き「正村」二代目主、正村秀一さんを訪ねた。

「♪雨の降る夜は 心もぬれる……♪」

ご存知名曲「柳ヶ瀬ブルース」。

その発祥の地、柳ヶ瀬劇場通り。

昼時や夕方には、あちこちの店から美味そうな匂いが立ち込め、漫(そぞ)ろ歩く客の袖を引く。

「お好み屋がお客さんに、お好み焼かせとったらかんて。そんなもん卑怯だわさ。お客さんを参加させて共犯にしてまったら、たとえ店の味が不味(まず)くても、お客さんは何んも言えんで」。秀一さんは、大声で笑った。

秀一さんは昭和27(1952)年に長男として誕生。

「昭和35年に父が、ここで店を始めたんやて。最初はスマートボール屋で、やがて大判焼き屋へ。それで昭和43年頃、家を建替えた時にお好み焼きに鞍替えたんやわ。あの頃は9時の開店から焼きそば食べに来る人らもおって、一日中てんてこ舞いやて。映画館が跳ねた夜10時頃までよう賑わってましたわ」。

大学卒業後は商社マンを夢見た。

しかし父の一言に脆(もろ)くも潰(つい)えた。

「お前なあ、大学出て給料いくらや?月12~13万と違うか?ほんなもん家なら日曜1日で稼げるわ」と。

まんまと父の口車に乗せられ、割烹料理店で板場修業に。

昭和54年に27歳で家業に戻り、その2年後、旧巣南町(現・瑞穂市)出身のみどりさんと結婚。

二男一女を授かった。

「あの当時は放っといても次から次へと客が来て、流れ作業で1日中お好み焼いとった」。

それが普通だと、次第に感覚が麻痺して行った。

「そのうち私が焼いた物を、家の子どもから『いらん!』って言われて。自分で気が付かんかっただけで、正直不味かったんです」。

時代は商店街から、郊外型の大型ショッピングセンターへ。

柳ヶ瀬全体の客足が減り、売り上げも年々下降の一途。

「現実を認めるまでに3年かかりました。このままでは廃業だって」。

ついに平成7年、材料卸の社長に相談した。

すると「やっとわかったんか!」と一喝。

「目から鱗(うろこ)でした。それから各地のお好み屋巡りして」。

ついに開眼。

秀一さんは父のソースも麺も、プライドも捨て「魂込めて自分が一番美味いと思えるものを作る」と決意。

今では客が店先に並ぶほどの繁盛店に生まれ変わった。

正村のお好み焼きの主力は広島風。

水抜きしたキャベツの食感が決め手。

まず生地を鉄板に敷き、カツオ粉を振りキャベツと天カスを四段重ね。

さらにモヤシと天カスを積み、カツオ出汁をかける。

次に肉を被せ水溶き小麦粉をかけ、上下を引っくり返して押し焼く。

それを別に焼き上げた焼きそばの上に載せ、さらに卵の上に移し変え、引っくり返してソース、青海苔、紅生姜を振れば完成。

「お客さんの『ここのは美味い』の一言だけが、心の支えやって」。

苦難の末にたどり着いた、正村自慢の庶民の馳走(ちそう)。

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「天職一芸~あの日のPoem 299」

今日の「天職人」は、愛知県豊橋市の「濱納豆(はまなっとう)職人」。(平成20年11月25日毎日新聞掲載)

隣の家(うち)のご隠居は 朝風呂浴びて縁側で         納豆あてに盃を グイと煽って「極楽じゃ」          「坊主お前も摘んでみ」 黒く萎(しな)びた豆を噛む      皮の中から味噌の味  それが豊橋濱納豆

愛知県豊橋市で明治末期創業の、濱納豆製造元、國松(くにまつ)本店。三代目女将の國松勝子(まさこ)さんを訪ねた。

「この子らは、自分から何んにも言いません。始終寡黙(かもく)なまま。それが豊橋名産の濱納豆。でも一旦、一粒口に含めば、とても雄弁に語り出します。時には料理の主役として、また時には脇役に。色んな役柄を見事に演じきるのよ」。勝子さんは、まるで我が子を自慢するかのような口調で、濱納豆を差し出した。

糸引き納豆とは異なり、粘々(ねばねば)と糸は引かない。

だからちょっと見には、歪(いびつ)な丸薬のようだ。

さっそく真っ黒に皺の寄った納豆を、一粒手に取り口の中へ。

生乾きの納豆は、貪(むさぼ)るように唾液を吸い上げ、やがて薄皮が溶け出し、中から塩味の利いた味噌のような香りと味が、ふわっと口中に広がる。

一粒の濱納豆は、まるで小さな味噌樽だ。

「とにかく新生児と一緒で手が掛かります。3~4時間毎に白太(しらた=杉の白木)の正目で作ったロジ(大豆に麹を付ける浅い升目の木箱)の淵に溜まった大豆と、真ん中の大豆に満遍なく麹菌が付くように混ぜ合わさんといかんですから」。傍らで三代目当主の伸一さんも、溺愛振りを発揮。

伸一さんは昭和12(1937)年、4人兄弟の長男として誕生。

高校に入ると、三代目を継ぐかどうかの後継問題に心を揺らした。

「高度経済成長期を、目前に控えた時代でしたから、いつまでもこんな物(もん)作っとっていいんだろうかって」。

大学では機械科に学び、昭和35年に、地元の製鋼圧延を手掛ける会社に入社。

それから7年後、豊橋生まれの勝子さんと結ばれ一男二女に恵まれた。

「私の実家が醸造の原料となる製粉をしていて、ここの家とも取引があったんです。それに父が、ここの初代十兵衛さんを尊敬していたこともあって、『その孫なら』ってことで、後はトントン拍子」。

勝子さんは嫁ぐと同時に、義父母と共に濱納豆作りに励み、育児もこなした。

名代の逸品、濱納豆作りは、まず大豆を水で7~8時間かけ冷やかすことに始まる。

次に蒸籠で蒸し上げ、一晩寝かせ翌朝、人肌の温度へ。

そして炒った大麦の粉に麹菌を塗(まぶ)して麹を作り、ロジに入れ人肌の温度となった大豆に、満遍なく混ぜ合わせる。

それを3~4時間毎に、ロジの淵と真ん中を満遍なく繰り返し混ぜ合わせる。

「とんでもなく心をかけんとできませんって」。

肝心要の麹作りは、今でも伸一さんの手によるものだ。

そして徐々に水分が抜け出し、麹菌の胞子がまっ黄色になった段階で、篩(ふる)いに掛けゴミを取り除き、塩水に浸け半年から10ヶ月。

最後の仕上げは、天日干しで旨味引き立て、醤油で味付けした生生姜を加えれば完成。

「お茶漬けは天下一品ですって」 。

濱納豆は1年の歳月と、蔵人の深い愛情に育まれ、味噌と異なる風合いを宿し、この世に生まれ出(い)でる。

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歳忘れ!「残り物クッキングクイズ!」

久しぶりの「残り物クッキングクイズ!」です。

冷蔵庫の掃除をしていると、まぁ次から次へと出てくる出てくる、中途半端な残り物の数々。

そこで今回は、こんな「残り物クッキング」にトライしてみました!

冷凍庫の片隅には、去年郡上から届けていただいたお正月に欠かせぬモノが!

これを一手間加えてイタリア~ンにしてみました。

冷凍庫の片隅に閉じ込められていた、粒粒くんや、野菜室で萎びかけていた野菜と、前日ガッツリと食べきれなかった大好物のアレも加えて!

パスタの残りの瓶入りの赤いソースに、岩牡蠣を白ワインとブルーチーズでボイルした、残りのソースで伸ばして使ってみました。

するとどうでしょう!

これが何とも絶品な美味しさで、ついついキリン一番搾りをグビグヒと煽ってしまった出来栄えとなりました。

お目の高い皆々様のお見立てをお待ちいたしております。

でも正解だからと言って、何か賞品があるわけでもありませんが!

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「天職一芸~あの日のPoem 298」

今日の「天職人」は、三重県四日市市の「出張髪結い」。(平成20年11月18日毎日新聞掲載)

小春日和の縁側で 舟こぐ母の髪を梳(す)く          黒髪自慢母なれど 見る影も無く雪化粧             目覚めた母は手鏡を ためつすがめつ眺めては          目を輝かせ紅を注(さ)す 乙女時代に立ち返り

三重県四日市市、ぱーま屋金太郎笹川店の主、井上修二さんを訪ねた。

昭和半ばの年末は、障子の張替えに始まり、年に一度の大掃除。

中でも御節の材料の買出しは、とにかく大変だった。

母に手を引かれ、人混みの中を行ったり来たり。

母は何軒も品定めの上、一円でも安い店へと買い回わった。

それが終われば二日もかけて御節作り。

いよいよ大晦日ともなれば、慌しさの隙を突き、母は髪結いへ。

年に一度の髪を結い上げ、モンペに割烹着という勇ましい姿で、行く年を見送った。

「あんな時代は、どこもそんなもん。だから大晦日の美容院はてんてこ舞い」。修二さんが懐かしげにつぶやいた。

修二さんは鹿児島県で2人兄弟の次男として昭和38(1963)年に誕生。

生後1歳の年に、家族揃って四日市市に移り住んだ。

高校を卒業すると、名古屋のぱーま屋金太郎本店で美容師の見習いへ。

「とにかく会社勤めが嫌で、調理師とかデザイナーとかに憧れて。で、たまたま髪型とかに興味があって、選んだんが今の美容師です」。

下働きをしながら通信教育で学び、21歳で美容師免許を取得。同じ年に兄と共に、暖簾分けで現在の美容室を開業。それから3年後には、岐阜県下呂市出身の美子さんと結ばれ、二男一女に恵まれた。

「昔、お客として来とったんですわ」。

それから平成2年に独立し、いよいよ一国一城の主に。

ちょうど世はまさにバブルの絶頂期。

誰もが浮かれ果てていた。

「工業都市の四日市は、どこの工場も人手不足。だからどんどん外国人労働者が増えて来て。特に7~8年前からは、ブラジルやペルーなど南米系の人らが増え出して。そこの公団なんか9割がブラジルの方ですに」。

そう言えば斜め向かいには、ポルトガル語の看板が掲げられた教会が。

「お客さんも時代と共にどんどん変わって。今は地元の方に交じって、南米系の方も来られます」。

修二さんは、時代の移り変わりを肌で感じ取っていた。

そんな2年前のある日。

客から相談が持ちかけられた。

「お客さんのお母さんが入院されて、シャンプーしに来て欲しいって。元々うちの店に通(かよ)とてくれた方が、身体悪してもうて来てくれやんやろかと」。

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修二さんは仕事を終えると、依頼のあった客宅へと向かった。

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「床に敷物して、カットクロス巻いて。店とは違うんで、ぼくがお客さんの周り360度をぐるっと回って。もともとお客さんやったで、好みのスタイルは知ってますし。終わるとカット代はいただきますが、出張料金は取りません。すると『悪いね、悪いね』って何度も感謝されて」。

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将来は息子に店を委ね、自分が高齢者の送迎をしたいと願う。

「髪は女性にとって何より大切なもんやし、髪を結って女を取り戻してもらわんと」。

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「天職一芸~あの日のPoem 297」

今日の「天職人」は、岐阜県八百津町の「栗金飩(くりきんとん)職人」。(平成20年11月11日掲載)

秋の里山色付けば 旬を求めて旅人が              八百津湊(みなと)に舟を着け 軒を覗いて品定め        物知り顔のご隠居が 八百津が生んだ栗金飩           茶巾絞りの薀蓄(うんちく)を 主相手に釈迦説法

岐阜県八百津町で明治5(1872)年創業の緑屋老舗、五代目栗金飩職人の白木功一さんを訪ねた。

岐阜県八百津町。

木曽川が東西に横たわり、大きく蛇行した川溜まりには、町の南端が突き出し、往時の舟溜まり跡としての名残がわずかに残る。

「大正の始め頃までは、坂を下った湊から舟で犬山へ。そっから電車に乗り換えて、名古屋の明道町や新道まで駄菓子を卸に行ったそうやわ。そんな頃は川舟も300艘ほどあったらしい」。功一さんは、白衣姿で上品な笑みをこぼした。

功一さんは昭和17(1942)年に、3人兄弟の長男として誕生。

「栗金飩は、美濃地方で家が一番初めに作り出したそうやわ。そこの大仙寺のご住職が、度々京都の本山へ出掛けられては、家の先祖に助言して下さり、大正初めには今の栗金飩が誕生しとったらしい。祖父の話によれば、大正時代の中津川には、まだ栗金飩がなかったそうやわ。現に中津川にある老舗の妹さんが、八百津に嫁いで見えて、よう家の栗金飩を買って贔屓にして下さったらしいで」。

昭和35年に高校を卒業すると、父の元で修業を始めた。

「まあ、まずはお一つどうぞ」。

何はともあれ、出来立ての栗金飩を頬張ってみる。

ほっこりとした栗の香りが鼻先を掠め、舌の上で茶巾絞りの栗が跡形も無く崩れ去り、栗のほのかな甘さが広がる。

確かにこれほど素朴で、力みのない栗金飩には、ついぞお目にかかったことが無い。

この美味さの秘訣は?

「近在で採れる栗しか使いませんから。地元の農家50軒で契約栽培し、1年分の25㌧を賄(まかな)ってます。栗の毬が開き、実だけが落ちた分だけ毎日拾い集めて使う、ただそれだけのことやて」。

すべては大地の摂理に委ね、我々はただその恵みに預かるだけ。

「今日入荷した栗は、明日、栗金飩に仕上げるんやて。素材の一番の美味さを損なったらいかんから」。

毎朝4時には、栗を洗って蒸し始める。

そして栗を半分に割り、中から竹べらで実を取り出し、鍋に砂糖を入れてながら30分ほど、煮詰めないように炊き上げる。

「香りが飛ばないように、ほっこり炊くのがこつやわ」。

炊き上がれば茶巾に1個20㌘の割合で取り分け絞れば完成。

1回の作業で約30㌔、それを1日に8~10回も繰り返す。

夕刻までに約7000個。

素朴な秋を彩る絶品が絞り上がれば、我先にと秋を求める客の元へと消えて行く。

功一さんは昭和44年に、美濃加茂市出身の美恵子さんと結ばれ、一男一女を授かった。

「長男がやがて六代目を継いでくれるもんやで」。

創業136年の暖簾と、代々伝え抜いた秘伝の味は安泰だ。

「秋の彼岸が近付くと、『栗金飩まだか?』って待遠しそうなお客さんの顔見るのが、本当に一番なんやて」。

老職人は誇らしげに客を迎えた。

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「天職一芸~あの日のPoem 296」

今日の「天職人」は、岐阜県郡上市八幡町の「雑穀商」。(平成20年10月21日毎日新聞掲載)

畑に長い影落し 腰を屈(かが)めた爺ちゃんが         鼻唄交じり鎌を振る 秋の恵みの穀(たなつもの)        粟倉(あわくら)様のお初穂は 自慢の出来の粟(あわ)と稗(ひえ)                             参拝済めば気も漫(そぞ)ろ 飲めや唄えの直会(なおらい)に

岐阜県郡上市八幡町の庄村米穀店、三代目主の庄村敏(さとし)さんを訪ねた。

「五穀の中でも粟稗なんて、昔は『恥の食』とされて蔑(さげす)まれとったんやで。山間地や痩せた土地で暮らす人の、命を繋いできた伝統的な食材やのに。ところが今ではすっかり、健康食や自然食なんやで。やっと見直され始めたんやろか。それでももう生産者は僅かやし、収穫量も少ない。それに雑穀は米のように機械化されとらんで、とにかく手間がかかる。だから米や麦より、値も張る高級品なんやて」。敏さんは、一気に思いを吐き出した。

敏さんは上野家の末子として昭和28(1953)年に誕生。

高校の部活では、一つ年上の先輩女子に憧れ生物部へ。

淡い恋心を秘め、先輩と共に調査に明け暮れた。

高校を卒業すると印刷材料の機械メーカーに入社。

その後も先輩との恋を育み、ついに二人は昭和52年に結ばれた。

庄村家の一人娘であった延子(のぶこ)さんが、婿養子を迎える形で。

やがて一男一女が誕生。

延子さんは、子育てに追われながらも店を切り盛りし、やがて蕎麦の製粉にも乗り出した。

「郡上で雑穀作りが続いたのは、餅文化があったからやて。粟はもち米なしで搗けるで、昔の貧しい農家には打ってつけ。餅さえこしらえとったら、厳寒の季節でも米を研がんでええし、水仕事も減る」。

敏さんは、理に適った古人の知恵をたたえた。

「改めて店ん中眺め回すと、面白いもんが沢山あることに気付いたんやて」。

平成7年に社を辞し米穀店の三代目に。

「うちの店も最初の頃は、雑穀の餅用に黍(きび)やタカキビを仕入れとったんやて。袋には商品名が『熊本黍』って書いてあるのに、産地が明示されとらん。袋が二重になっとって、中の袋には『飼料用』って書いてあるし。これではあかん。どうせなら地産地消やないとって」。

敏さんは各地の農家を訪ね、雑穀の種を捜し求めた。

「農家はどこもかしこも高齢者ばっかり。跡継ぎも無い。放っといたら種が絶える。だから種を何とか譲ってもらってお礼して」。

今では車で10分ほどのところに畑を借り、粟・黍・稗の生産も手掛ける。

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「雑穀は収穫後が手間なんやて。雑穀用の機械なんか高くて手が出んで」。

粟や黍は収穫後、まず脱皮機にかけ、続いて唐箕機(とうみき)に10回かけて皮を落す。

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次に精白機に3~4回かけ、再び唐箕機で糠を取り去る。

それでも取れないものは、1粒ずつピンセットで取り除く。

9月の収穫から丸1年、その果てしない作業は続く。

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「稗は禾偏(のぎへん)に卑しいと書く。雑穀なんて昔は、卑しさの代名詞みたいなもんやったのに、今のブームは何でやろ?こんだけ贅沢品が溢れかえっとるのに。それともやっとみんなが、大切な物に気付き始めたんやろか?」。敏さんは誇らしげに笑った。

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「冬の醍醐味が届きましたぁ!」

まずはご覧ください!

今年もゴッド君から、広島の岩牡蠣が届きましたぁ!

もう毎年のことながら、感謝感激雨霰です!

せっかく新鮮な岩牡蠣ですから、そのまま生でチュルッと行きたいのもやまやまですが・・・。

どうにもぼくの体質には、生牡蠣はちょいと・・・。

そこで今年も、ちょいとお値打ちなシャルドネの白ワインを1.5ℓと、ブルーチーズを買い込んで、白ワインとブルーチーズでボイルしていただきました。

もちろん一度にこんなにも食べきれるわけもありませんから、白ワインとブルーチーズの旨味を身にまとった牡蠣を殻から外して、冷凍保存しておきました!

まぁしかしそれにしても、冬の醍醐味にすっかり心奪われ、キリン端麗グリーンとヴィラマリアのソービニヨンブランがグビグヒと進んでしまいましたぁ!

ゴッチャン、今年もありがとうね!!!

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「天職一芸~あの日のPoem 295」

今日の「天職人」は、愛知県弥富町又八(現・弥富市)の、消えゆく昭和の貴婦人「白文鳥繁殖家」。(平成20年10月7日毎日新聞掲載)

片一方の靴下に 願いを託し枕元                母に言われるまでもなく 早寝を決めてサンタ待つ        寝惚け眼(まなこ)を見開けば 枕の側に籠の鳥         赤い嘴(くちばし)白い羽根 貴婦人のよな白文鳥

愛知県弥富市で白文鳥の繁殖家を務める三代目の大島静雄さんを訪ねた。

愛知県弥富町又八は、手乗りの白文鳥、繁殖の里。

最盛期の昭和40年代には、弥富町だけでも300軒の農家が副業とした。

しかし現在ではわずかに7軒。

高齢者が細々と繁殖を手掛ける。

「まあわしで仕舞いだわ。又八のみんなで守って来たもんを、今わしの手で消そうとしとるんだで」。老人は鳥小屋の中から白文鳥の雛を取り出し、皺深い目元に薄っすらと涙を浮かべながら寂し気につぶやいた。

白文鳥の歴史は幕末に遡る。

元治元(1865)年ごろ、犬山藩の武家屋敷へ奉公に上がっていた「八重女(やえめ)」という女中が、又八の大島新四郎方に嫁ぐ際、桜文鳥を貰い受け持参した。

やがてそれが繁殖を繰り返す中、突然変異の亜種として白文鳥が誕生。

「それを繰り返しかけ合わせ、昭和の始めから今の白文鳥として世に送り出したんだわ。他の文鳥とは違い貴婦人みたいで値が張るで」。

静雄さんは大正14(1925)年、この家の長男として誕生。

終戦後大学を出ると、小中学校の教壇に立った。

3年後、名古屋市港区から美代子さんを妻に迎え、二男六女を授かった。

「今は孫が15人に曾孫が3人もおるで、よう名前も覚わらんわ」。

静雄さんが三代目を名乗れるのは、妻美代子さんの支えがあったればこそ。

家事に子育て、おまけに舅姑(きゅうこ)の世話と野良仕事。

その合間を縫い白文鳥の世話に明け暮れた。

「わしは定年後、公民館で5年館長を務め、65歳でようやく三代目らしい白文鳥の世話を始めたんだわ。女房に教(おそ)えてまって」。

白文鳥の80年の歴史は、決して平坦な道程ではなかった。

終戦直前の空襲で鳥小屋が焼かれ、餌にもこと欠き壊滅状態に。

「そんでも近所の家に10羽ほど隠してあったんだて。戦後はその10羽から再出発だわさ」。

戦後白文鳥は平和の象徴として、一大ブームを巻き起こした。

「だが今度は伊勢湾台風だわ。鳥小屋が水に浸かってひっくり返ってまって、鳥もみんな逃げ出して。いよいよ今度こそ壊滅かと。そしたら2階で飼っとった農家の文鳥が助かって」。

再び昭和40年代に大ブームが到来し、台湾への輸出も盛んになった。

しかしその後、台湾で繁殖が始まり、逆輸入の憂き目に。

「わしら昔も今も1羽たったの1000円だわ。鳥屋じゃあ、つがいで8000円もするに。技術も手間も愛情も、人一倍かかるのに儲けはあれせん。だから若い者(もん)らは誰(だあれ)もせえへんて。それに今の子らは、手乗り文鳥よしか、テレビゲームの方がええんやで」。

弥富名産の白文鳥。

最後の繁殖家は苦しげにつぶやいた。

「もうわしに出来ることは、この村で白文鳥が誕生したことを、後の世に残すことだけだわさ」。

昭和を生き抜いた白文鳥は、間も無く空の彼方へと消え入ろうとしている。

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「天職一芸~あの日のPoem 294」

今日の「天職人」は、津市大門の「天むす屋女将」。(平成20年9月30日毎日新聞掲載)  

紅葉色付く境内で 床机(しょうぎ)に君と二人掛け       差しつ差されつ美酒に酔い 往く秋惜しむ虫の音に        経木の包み君は解き 紅葉を皿に天むすを            キャラブキ添えて移し変え 「秋をお一つ召し上がれ」

津市大門「天むすの千寿」二代目女将、仲村磯路さんを訪ねた。

午前十時。

開店のため暖簾を出そうとする店員を押しのけるように、待ち侘びた一番客が店内へと雪崩れ込む。

カウンターで仕切られた、小さな調理場。

中央の柱には下向きで扇風機が回り、その風を受けながら真っ赤な掌が次から次へと天むすを握り上げる。

「ご飯は炊き立ての熱(あっつ)い方が握りやすいんやさ。そやでいつの間にか掌が真っ赤に熱で焼けてもうて」。磯路さんは年季の入った両の掌を、扇風機に翳した。

天むすの由来は、昭和30年代初頭に遡る。

当時天ぷら屋を営んでいた初代女将の水谷ヨネが、忙しい中でも栄養のある昼食を夫にと、車海老の天ぷらを切っておむすびに握ったことに始まる。

「先代は元芸者さんで、旦那さんと駆け落ちして満州へ。戦後引き揚げてここで天ぷら屋を開いたんです。いつも口癖のように『本妻よりも早よ死なしてはならん』言うて、旦那さんにえらい尽くされたそうなんさ」。

三代目を継ぐ磯路さんの長女、福田尚美さんは注文に追われる母を見つめた。

「昭和43(1968)年頃から母がここで働くようになって、それから10年程して母が二代目を継がしてもうたんです。だから名古屋大須の分家は、それから後に初代から暖簾分けしてもうたんやさ」。

尚美さんは同県紀北町で昭和40(1965)年に誕生。

昭和60(1985)年、専門学校を出て医療事務に就き、2年後、母の店を本格的に継ぐことに。

名代の天むすの決め手は、何と言っても海老。

まず頭と背腸(せわた)を取り皮を剥く。

衣の生地に絡め、特注油でカラッと揚げる。

「昔は伊勢湾で水揚げされた小ぶりで甘い『ダルマ海老』でしたんさ。でも今はもう取れやんで『アカシャ海老』なんさ」。

客の注文を受けてから海老を揚げ、磯路さんの年季の入った掌が、小ぶりな天むすを握り上げ海苔を巻き付ける。

「三角の頂点を人間の首に見立て、両肩にショールのように海苔を巻くんやさ。初代が天むすを商品化した頃、丁度皇后様のご成婚の時やって、それをテレビで見てヒントにしたそうやわ」。

ヒノキの皮に紙を手貼りした経木に、握りたての天むすを六個とキャラブキを添え、ヒノキの皮紐で捻り止めれば完成。

「一度で最高に食べはったんは、お相撲さんの50個やったやろか」。

天むす5個で2膳の分量。

多い日は2500個から3000個が握られる。

尚美さんは平成6(1994)年、志摩市出身のプロゴルファー寿和さんと結婚。

一女に恵まれた。

「結婚したての頃、夫はツアーで不在がち。私はきりきり舞いで母と天むす握って」。

尚美さんが掌を広げた。

磯路さんの真っ赤な掌に比べ、ずいぶんと桃色だ。

日本一天むすを握り続けた母の掌には、まだまだ到底及ばない。

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「天職一芸~あの日のPoem 293」

今日の「天職人」は、三重県志摩市の「波切節燻(なきりぶしいぶ)し職人」。(平成20年9月23日毎日新聞掲載)

朝一番の号砲が 運動会を触れて鳴る              母は早よから台所(だいどこ)で 弁当作り大わらわ       蛸足ウインナー卵焼き 「おかかむすびでいいよね」と      母は鰹を削り出し タマが足下ニャアと鳴く

三重県志摩市の波切「波切節のまるてん」、三代目燻し職人の天白幸明さんを訪ねた。

大王崎の荒々しく入り組む海岸。

断崖を見下ろす突端の集落、三重県志摩市の波切。

真っ黒な鰹の燻し納屋が、秋晴れの空に一際映え渡る。

「『お前は生まれ育ちも顔も、れっきとした海賊育ちやで』って、よう親父からそう言われ続けましたんさ」。幸明さんは、潮焼けの赤ら顔で笑い飛ばした。

「もともと大王崎波切は、九鬼水軍の本拠地。鰹節の製造も盛んやって、船に積んで江戸や上方へと運んどったんやさ。ところがある時、嵐で船の到着が遅れてもうて、鰹節に黴が吹いてしもたんや。しかし黴が吹いた鰹節が、これまた何とも美味い。その偶然の産物が今の波切節やさ」。

江戸では本枯節(ほんがれぶし)、上方では荒節、鬼鰹と呼ばれ持て囃された。

幸明さんは三人兄弟の長男として、昭和34(1959)年に誕生。

「ちょうど伊勢湾台風の年やって、畳10枚積み上げた上で母に抱かれたまんま夜を明かしたらしいんさ」。

大学時代に文政5(1822)年の「諸国鰹節番付表」と出逢った。

「諸国の鰹節番付に混ざって、志摩波切節が行司の大役に記されとったんやさ。何でやろうと思って興味が沸いたんと同時に、波切に生を受けた者として天命を感じてもうて」。

大学を出ると修業のため名古屋の食品卸商社へ勤務。

昭和59(1984)年、高校の後輩であった裕美さんを妻に迎え、二女を授かった。

ところが昭和62(1987)年、母の容態が悪化。

急遽帰省し家業に就いた。

「いきなり本物の味を覚えろって、日本橋にんべんの鰹節を食べさせられて。それがまた、何とも言えん芳醇な香がして。元々にんべんの初代は四日市出身で、日本橋に出店する前、波切で修業したらしいんさ。それからも全国各地の鰹節も取り寄せては、味の特徴を研究して」。

幸明さんは、作り手・売り手・消費者が一体となった鰹節作りに腐心。

売り手の言いなりとなって安価な商品作りに流されず、波切の先達が伝え遺した本物の味と技法を守り抜いた。

波切節は一本釣りで揚がった鰹を、船ごと買い付けることに始まる。

「巻網漁やと鰹同士がぶつかり合って、内出血して品質が落ちるんやさ」。

水揚げされた鰹を背節(雄節)腹節(雌節)に捌き、魚体の節を目で確かめ蒸籠(せいろ)に並べ、ウバメガシなどの薪をくべた手火山(てびやま)で約1時間かけ一番火で燻す。

次に5~6段積みの蒸籠を上下入れ替え二番火へ。

この燻し作業を10~15回繰り返す。

そして黴付け部屋へ移して異なる黴を付け天日干し。

丸1年かけ1番黴から5番黴まで、ただただ黴付を繰り返し自然界の職人たる燻しの神に全てを委ねる。

「神殿の棟木と交差するように並ぶ装飾用の材を『かつお木』と呼ぶんやけど、それが黴付けて屋根の上で天日干しするのにそっくりなんさ」。

御餉国(みけつくに)の燻し職人は、誇らしげに自慢の逸品を手にした。

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