「天職一芸~あの日のPoem 307」

今日の「天職人」は、岐阜市東材木町の「鉄砲火薬店主」。(平成21年2月3日毎日新聞掲載)

首に風呂敷巻き付けて ハリマオ気取り瓦礫(がれき)山     銀球(ぎんだま)鉄砲撃ち過ぎて 這いつくばって球拾い     みんな悪役嫌がって ヒーローだけで果し合い          撃てど撃たれど永遠に 不死身同士で泥仕合

岐阜市東材木町の奥田銃砲火薬店。三代目主の奥田康雄さんを訪ねた。

今をさかのぼる442年前。

織田信長は、難攻不落と謳われた金華山の稲葉山城を落とし、岐阜城と改め天下布武を旗印に京を目指した。

信長は戦国武将の中でも、いち早く戦に鉄砲を重用した事でも知られる。

その岐阜城の西に広がる城下には、多くの職人たちが暮らしたであろう、その痕跡を宿す町名が今なお数多く残る。

木挽町、材木町、大工町、布屋町、靱(うつぼ=矢を携帯する筒状の容器)屋町、万力町、金屋町。

しかしもう、往時を偲ばせるような職人の姿は、どこにも無い。

そんな感傷に浸りながら歩いていると、奥田銃砲火薬店なる看板が。

もしや!信長の鉄砲隊を支えた、戦国時代から続く鉄砲鍛冶か鉄砲商人の末裔か?

思わず逸(はや)る心で歩を進めた。

「残念ながら家の創業は、大正の初めですわ。創業した爺さんは、日露戦争の二百三高地へ出征して、騎兵隊の先頭で三八式銃を構えて、真っ先切って突進したらしいです。それで乃木大将から金鵄(きんし)勲章をいただいたって、そんな自慢話をよう聞かされました」。康雄さんは、射撃場へと導いた。

康雄さんは昭和22(1947)年、5人兄弟の次男として誕生。

大学を出ると、繊維関係の商社で営業職に就いた。

家業は長男が継ぎ、昭和46年には店と道路を隔てた、斜向かいの場所にエアーライフル射撃場を開業。

「ちょうど射撃人口が、増加の傾向にあった時やったからねぇ」。

康雄さんは懐かしそうにつぶやいた。

その5年後に長男が急逝。

「それで29歳の時に、急遽跡継ぐことになったんやて」。

多くの民は、つい30年前に戦争と言う名の下で、人が人を殺め合ったことなど忘れ去り、高度経済成長に沸き立っていた。

人を殺めた銃の技は、いつしか一つの競技へと成長。

「五輪でも射撃は目立たないから、テレビじゃ中々取り上げられんのやって」。康雄さんが苦笑した。

散弾銃を用いるクレー射撃の場合、1㍍四方の射台で銃を構え、射撃手が上げる。

「ハイッ」の声を合図に、1枚の皿のような標的が空中へと飛び出す。

射撃手は銃を構え、標的に照準を合わせ引き金を引く。

「射台の上で雑談でもしとると、その声にマイクが反応して標的が発射されてまう」。

1発の散弾実包からは、35~36㍍先で400個の散弾となって、新聞紙を見開いた程に広がり飛び散る。

「でもブームのピークは、昭和53年頃まで。それからは徐々に下火やね。特にライフルを使った凶悪事件なんかが起きる度に、銃砲所持の規制も強化されるし」。

逆に銃の所有者は、それだけ身元確実な紳士の証でもある。

バカと鋏の喩えではないが、銃も火薬も人次第。

折りしも今日は節分。

人の心に巣食う邪気を祓い、平和な日々を祈りたい。

「鬼は外、福は内!」

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「天職一芸~あの日のPoem 306」

今日の「天職人」は、愛知県岡崎市の「薪屋」。(平成21年1月27日毎日新聞掲載)

巨人大鵬卵焼き 昭和半ばのぼくらには             百点よりもホームラン 下校チャイムで一目散          日が暮れるまで草野球 腹を空かせて駆け戻りゃ         母の雷罰として お預けのまま炭熾(おこ)し

愛知県岡崎市で昭和2(1927)年創業の鈴木燃料店、二代目主の鳥居久子さんを訪ねた。

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「『ちょっとあんたあ、死ぬんやないらぁ』って、練炭や炭を車で買いに来る初めての客には、必ず聞いたるだぁ。そんなもん最近は、一酸化炭素中毒で自殺するもんが増えとるだで。練炭や炭は、煮炊きしたり暖を取ったりするもの。命を絶つもんじゃないだ」。久子さんの横で、火鉢の土瓶がヒューヒューと湯気を上げ鳴き出した。

久子さんは昭和15年に鈴木家の三女として誕生。

「長男が小児麻痺を患って、今も身障者のまま一緒に暮らしとるだ。その兄も若い頃は、麻痺の残る体でリヤカー牽(ひ)いたり背負子(しょいこ)担いで、父を手伝っとっただに」。

写真は参考

中学を出ると簿記の夜間学校へ進学。

「商売手伝うに必死やったで」。

卒業するとそのまま家業に従事。

「戦後直ぐの燃料は、薪に木炭。昭和20年代後半になって練炭や豆炭へ。それから10年もすると、今度は石油コンロ。当時は一升瓶の目方売りだって。それから昭和も40年代に入るとLPガスの時代らぁ。目まぐるしいったら切りがないだ」。

当時はガスのボンベが、ガス台の真下に設置されていても、御咎(おとが)めなしだったとか。

「ほんでも昔の方が、事故は少なかっただに。みんなその都度ボンベの元栓まで締めとったで」。

時代と共に燃料が移り変わる度、久子さんは試験を受け免許を取得した。

昭和36年、久子さんが21歳になった年だった。

市内の喫茶店で年頃の久子さんを、同業者でもあった夫弘志さん(故人)が見初めた。

「本当は別のお相手があっただ。そんでもかんわ、向こうが必死に言い寄ってくるらぁ。とうとう家出して、手に手を取って九州へ逃避行だわ」。

だが、家族と家業を案じ、家出はたったの1週間で終わった。

「そんでも主人が養子は嫌だって言うもんだで、私が主人の鳥居姓にして。今思えば、先に新婚旅行したみたいなもんだわ」。

名字だけは嫁入りしたものの、新婚夫婦は鈴木家に寝起きし、やがて一男一女が誕生。

燃料革命の嵐が猛威を振るう真っ只中で、家業と子育てに奔走した。

ところが昭和53年、「行って来るでな」と朝送り出した夫が急逝。

「運転中に心筋梗塞で倒れて。お金と保険証だけ持って、下の娘を連れて駆けつけたけど、間に合わんかっただ。あん時は、神も仏もないと恨んだわ」。

残された久子さんは、女手一つで2人の子どもを育て上げ、障害を持つ長兄を未だに支え続ける。

ここには、戦後の燃料革命の歴史が、現役の商品として居並ぶ。

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「薪は寒切(かんぎ)りでないとかん。夏は虫が湧くし、スンガル(虫食い)もんは、火力も3分の1だで。でも最近は、また薪ストーブや火鉢にも人気が出て来ただぁ」。

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薪屋の女将は、そっと火鉢に手をかざし、家族の歴史が刻み込まれた店内を、感慨深げに見回した。

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「天職一芸~あの日のPoem 305」

今日の「天職人」は、三重県伊勢市の「雑誌編集長」。(平成21年1月20日毎日新聞掲載)

商店街の情報誌 女将総出でジャンケンポン          勝って誰もが狙うのは 編集長の役どころ            特集記事の食べ歩き 身銭じゃ行けぬ店ばかり         「誰が行く?」とは問いながら 真っ先駆け出す編集長

三重県伊勢市、情報誌「NAGI」を発行する月兎舎(げっとしゃ)。編集長の坂(さか)美幸(本名・日比)さんを訪ねた。

「子供の頃、授業中に『ミニミニ坂(さか)新聞』ってゆうの作って。身近な何でもない出来事を、セッセと小さなメモ帳に書いて、友達にこっそり回覧すんのが楽しみやってん」。美幸さんは、おっとりとした伊勢訛りで語り出した。

美幸さんは昭和44(1969)年、市内でマッサージ治療院を営む両親の元に一人娘として誕生。

「両親共に目が見えやんのやさ。せやで母は、私がどんな顔して産まれて来たかも知りませんに」。

小中学校時代には、国語の教師を目指した。

「家で白黒テレビ見ながら私が『あの赤いバラ綺麗や』とか、『海が真っ青や』とか、独りでしゃべっとったらしいて、それ聞いて両親がえらいたまげて。『知らん間にテレビが、カラーになってもうた』って。それで慌ててカラーテレビ買(こ)うてくれたらしいんさ」。

確かに白黒テレビでも、ドラマに夢中になると色付きに見える気がしたものだ。

高校では文芸部員に。

「先生から『お前の文章は、意味が分からんけど、何や存在感があるなあ』って」。

短大を卒業すると、赤福の版画工房に入社したはずが、職人の空き枠が無く売り子に。

「こんなはずやなかった」と1年で退社。

貯金を叩(はた)き、京都の染色学校で1ヶ月間学んだ。

染色を志す仲間たちとの出逢いを糧に、再び伊勢へ。

すると高校時代の文芸部の恩師から「お前に向いとる仕事がある」と、雑誌社を紹介された。

翌平成3年に雑誌「伊勢志摩」の編集に携わることに。

取材で改めて地元の素晴らしさを再認識。

「ちゃんと伝える使命があるんちゃうかな」と。

2年後、伊勢に住まう神々は、運命の出逢いを導いた。

「岩渕町のお白石持(しらいしもち)行事の密着取材で、老若男女の団結力に魅了されて。普段ダッサイかっこしたオヤジでも、町の法被1枚で『メッチャかっこええやん』ってほどイナセ。『もう絶対この町へ嫁に来て、あの法被が着たい!』と」。

すると奇遇にも、長老たちが1人の青年を引き合わせた。

たちまち意気投合。

平成8年には賢(まさる)さんの元に嫁ぎ、一男一女を授かった。

平成11年、2人目の子育てに専念したいと雑誌社を退社。

するとそれを待ち受けたかのように新たに創刊される「NAGI」編集長への誘いが。

「今を生きる『ヒト』を切り口にした雑誌が作りたいと、発行人とも同じ考えやったし」。

これまで創刊から数え35号が世に出た。

「読者の声がなによりのビタミン剤。もっとええもん作らんと」。

光を失った両親は、ボランティアが朗読したテープで、一人娘の記事を聴く。

両手に厚手の雑誌を押し抱くように。

「そういうたら、昔から手触り感のあるもんが好きやった。もしかしたら親に触らせて、伝えたかったでやろかな」。

編集長は庶民の心や言葉を紡ぎ編み、小さな希望の明日を、1冊の書物に封じ込め続ける。

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「天職一芸~あの日のPoem 304」

今日の「天職人」は、岐阜市下茶屋町の「紋章上絵師(もんしょううわえし)」。(平成21年1月13日毎日新聞掲載)

衣桁(いこう)に掛けた紋付の 背中の紋が三つ葉では      お洒落な父に不釣合い 飴のオマケのシール貼ろ         宮の神事に紋付で 娘の前で晴れ姿               されど背中に笑い声 紋が娘のオバQに

岐阜市下茶屋町の千太(ちた)屋紋章工芸、二代目上絵師の田中啓一さんを訪ねた。

「まあだいたい昔から、一つの着物に5五つの上絵を書くのと、床屋の値段が同じってのが相場と決まったもんやて」。啓一さんは、絵筆を片手に振り向いた。

啓一さんは昭和22(1947)年に、4人兄弟の長男として誕生。

東京の大学を出ると広告代理店に勤務。

伝統的な紋章の上絵を描き続ける職人技の父と、近代的で華やかな意匠を広告上に表現する息子。

高度経済成長も華やかなりし時代。

古き日本の伝統は悉(ことごと)く葬り去られ、誰もが我先にと欧米の文化を模倣した。

昭和49年に友人の紹介で、宮崎県出身で保母の幸子(こうこ)さんと巡り逢い結婚。

一男一女を授かった。

ところが翌年。

「母が肝臓を患って、急遽家業に戻ったんやて」。

実家へ戻り、父を師と仰ぐことに。

「最初は父の下回しや配達専門。まぁ小さな頃から父の仕事振りは見て育ったし」。

『門前の小僧、習わぬに経を読む』の喩えではないが、紋屋の小僧も直ぐに父の技を盗み取っていった。

一口に上絵師の仕事と言っても、喪服や黒留袖の「紋入れ」。

色留袖の「抜き紋」。

それに「刷り込み紋」、「縫い紋」「貼り紋」と様々だ。

「家紋は俗に6000種類とか言うけど、実際には地域性で異なるし倍以上やね」。

紋の図案も、草、花、鳥、魚、動物、天文、幾何学模様、道具など、それぞれ家の由来を物語る。

「上絵を書く場合は、まず反物の石持(こくもち=上絵用に白地のまま、染めずに丸く抜いた円)を紋洗いし、不純物を取り除くんやて」。

次に家々の家紋の図柄に応じ、柿渋紙の型を置いて染料で刷り込んだり、シベと呼ばれる上絵の細い線は、京都の専門の墨で手書きする。

岐阜特有の五つ星(梅鉢紋の真ん中を刳り貫いた型)などの円は、分廻(ぶんまわ)しと呼ばれる竹の手作りコンパスを使用。

直線部分は、真ん中にガラス棒の滑る窪み(筆をガイドするため)を付けた竹定規で描き出す。

そして家紋を描いた後の石持の余白に、生地と同じ色の染料を差す。

「染料が水に鳴かん(滲み出さん)ように、蒸気をかけて蒸して定着させるんやて」。

昭和50年頃には、紋業界にもシルク印刷のプリント紋が登場。

「でもプリントやと、シベの強弱や濃淡が出ず味気ないんやて」。

また最近では、生地の表面に防水加工が施され、水性染料の上絵が困難となった。

「岐阜でも昔は8人おった上絵師が、今では半分の4人やでね。まぁだいたい10万人都市に1人の勘定やて」。啓一さんが潔く笑った。

「たまあに思い違いしてまって、抱き茗荷(みょうが)を入れるつもりが、うっかり剣酢漿(けんかたばみ)を書き上げて。しゃあないで自分で紋を抜いて、またもう1回上絵するんやわ」 。

墨、硯、筆、染料、刷毛、平鏝(ひらごて)。

上絵師はわずかな道具だけで、先祖の来歴を家紋に印し続ける。

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「天職一芸~あの日のPoem 303」

今日の「天職人」は、三重県四日市市の「鯛焼き屋」。(平成20年12月30日毎日新聞掲載)

突っ張り気取る先輩は マンボズボンにリーゼント        同じクラスのマドンナを バス停前で待ち伏せた         待ちくたびれて先輩は 彼女に渡すプレゼント          鯛焼き二枚齧(かじ)り付き 女子高生に後ろ指

三重県四日市市の、たいやき伊藤商店。二代目主の伊藤典正さんを訪ねた。

今川焼きに大判焼き、それに鯛焼き。

いずれも昭和の半ばは、庶民にとって高嶺の花。

少なくとも我が家では、テストが満点とか、運動会で一等の時にしか、めったに口に入らぬご褒美(ほうび)だった。

以来、この国が高度経済成長を遂げる度、鯛焼きはその地位を一つずつ洋菓子に明け渡していった。

「父は何にも遺(のこ)さんくても、お客さんだけ遺してくれたでさ。それだけでええやん。二代続いた宝物なんやで」。典正さんは、年季が入って黒光りする鋏鏝(はさみごて)を返した。

「わし1でええわ。ここで食べさせてもうてくで」。年老いた馴染み客は、手馴れた様子で給茶機から茶を汲み、テーブルに腰掛け、焼きたての鯛焼きをいかにも美味そうに両手で頬張る。

典正さんは昭和17(1942)年に、4人兄妹の長男として誕生。

「父は戦前からアイスまんじゅうの製造を始め、その後、昭和32年から自己流で鯛焼き屋を開業。アイスは夏場の仕事やし、冬んなるとブラブラしてまうもんで」。

アイスまんじゅうの餡子作りから、さらに試行錯誤を繰り返し、鯛焼きにぴったりの餡子を完成させた。

「この鯛焼きの型は、父がこだわって手作りした、家(うち)独自の鋳物製」。

手先の器用だった先代は、焼き場のガスコンロにも一工夫。

左右で火力が異なる。

右手の火力が一番強く、最初に生地を薄く流し入れ、餡子を入れて再び生地を塗り、鏝で挟んで裏返して一つ左側へと鏝ごと移動させる。

順にこの作業を10個分繰り返せば、最初の鏝が1番左端の最も火力の弱いコンロの上へと移動する。

そうすれば1番左端から順に、鯛焼きが焼きあがる仕組みだ。

「コンロの上に鯛焼きが立てて置いてありますやろ。その番線を折り曲げた鯛焼き立ても、父が遺した手作りもんですんさ」。

ここに鯛焼きを立てることで、コンロの余熱で程よく保温された状態が保たれる。

「寝かしたままやと、生地が湿気(しけ)てベタットしますやろ。こうしとけばいつまでもパリッとした食感を、味おうてもらえますで」。

典正さんは高校を上がると、弱電関係の会社へと就職。

昭和49年に社内結婚で弘子さんを妻に迎え、一男二女を授かった。

そして32年間勤め上げ52歳で退職。

「父は80歳超えてましたし」。

年老いた両親の店を引き継いだ。

「父にはえらい仕事やったでしょう。熱いし鏝は1㌔あって重いし、おまけに立ち仕事やし」。

それでも先代は、87歳でこの世を去る直前まで、鏝を握り続けた。

典正さんの朝は早い。

毎朝5時起き。

6時間かけ、小豆に砂糖、そして塩と水飴を加え餡を炊く。

「父が遺したやり方、そのまんまですに」。

典正さんが照れ臭げに笑った。

半世紀を経た伊藤商店の鯛焼きは、紛れも無い昭和半ばのありがたい味がした。

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2020.12.27の「残り物クッキングクイズ」正解はこちらです!

「究極の残り物!ニョッキならぬ揚げ餅のアラビアータ」

冷蔵庫と冷凍庫の大掃除を兼ねて、繁々と冷凍冷蔵庫内を眺めまわして見ました。

するとどうでしょう!まあ出てくる出てくる!

まず使いかけのまま冷凍していた、瓶入りアラビアータソース。

それと去年のお正月用にと、郡上から送っていただいたお餅。花餅用のピンクと栃餅の伸餅がございました。

さらには、缶入りスィートコーンの残りを冷凍していた物。

これらを一纏めにやっつけたのが、年の瀬大掃除残り物ランチでした。

まず伸餅を短冊状に切り、油で揚げ、その油で茄子も素揚げしておきます。

次にフライパンにオリーブオイルをたっぷりひき、ニンニクの微塵切りで香りを立て、そこへ揚げ餅と素揚げした茄子、トウモロコシを加え一炒めしつつ、解凍したアラビアータソースに白ワイン、コンソメの顆粒で味を調え一煮立ちさせれば完了です。

これが冷蔵庫の大掃除とは思えぬほど、とってもイタリア~ンなランチの逸品となりました。

あまりの美味しさについついキリン一番搾りと白ワインが進んでしまい、その後の大掃除は断念!トホホ

ぜひ皆様のお宅でも、お雑煮や焼餅に飽きたら、ちょっと思い出してトライしていただければ何よりです。

皆様からの沢山の、お目の高いご回答、誠にありがとうございました。

また気まぐれ「残り物クッキング」をお楽しみに!!!

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「2021初春のお慶びを申し上げます!」

2021年を無事に迎えることが出来ました。

今年のぼくのお正月飾りです。

左には、毎年ゴッド君が送ってくださる「鬼柚子」。

そして市田柿の串柿。

さらにわが家のベランダ菜園で頑張って実を結んでくれた、天突き南蛮にお神酒と塩です。

それと相対した壁には、藍染めのベコちゃんタペストリーです。

どうかどうか、ここに集ってくださる皆々様に、2021年が素晴らしい年でありますように!

そして一日も早く、再び皆々様とお逢いできますように!!!!!!!

ちなみに!

手作り酢レンコンに、収穫間もない天突き南蛮を使って見ました!

唐辛子の香りがとっても良くって、そしてビリッと来る辛さが酒のあてには堪りませんでしたぁ!

今年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。

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「天職一芸~あの日のPoem 302」

今日の「天職人」は、名古屋市熱田区の「曳(ひ)き売り釜炊き豆腐職人」。(平成20年12月16日毎日新聞掲載)

「トーフートフトフ」。

濁声(だみごえ)が ラッパ奏でて路地を行く          犬の遠吠え長い影 釣瓶(つるべ)落しに迫る宵         引き戸を開けて子供らが 路地へ駆け出す長屋から        オヤジに鍋を突き出して 「豆腐一丁、揚げ二枚」

名古屋市熱田区の、二代目曳き売り釜炊き豆腐職人の林正光さんを訪ねた。

写真は参考

 昭和の夕暮れは、豆腐屋のラッパの音と、「トーフー トフトフ」の濁声と共にやって来た。

子らは鍋を両手で抱え、豆腐屋を追い駆ける。

「今じゃあ曜日を決めて、ご近所を回っとるだけだわ。」。正光さんは、自転車から木箱を下ろした。

正光さんは昭和10(1935)年に、名古屋市中村区(現・笹島操作場跡地付近)で5人兄弟の長男として誕生。

「尋常小学校の頃だわ。戦争も末期で大豆も配給。やっとの思いで豆腐をでかした途端、ガラスを外してまって、手突っ込んで盗んでっててまうんだて」。

戦後の安寧(あんねい)と引き換えに、空襲に焼け出され新川町へと町ぐるみで移住。

新制中学を出ると、昭和25年に変圧器の製作所に勤務。

しかしわずか3ヶ月で父に呼び戻された。

「当時はまんだ大豆を、足踏みローラーの臼で挽いとった時代だて。痔を患っとった親父にはちょっと重労働だし、ちょうど豆の統制も外れた時だったで、豆腐屋の再出発だわ」。

毎朝3時に起床。

前日から水に浸しておいた大豆を臼で挽き、竃(かまど)に大鋸粉(おがこ)を入れて火を熾(お子)し、沸騰したお湯に大豆をそっと浮かべる。

写真は参考

「大豆が鍋の底へ行ってまうと焦げるでかん」。

やがて大豆が加熱され、湯の上辺へと浮き出す。

「次に油と硝石灰(しょうせきばい)の、泡消しを入れたると豆乳になるんだわ」。

それを布でこしてオカラを取り除き、苦汁(にがり)を入れる。

「今の豆腐屋は、本物の苦汁なんて使っとらんって。だいたいは、あらけにゃあことに硫酸マグネシウムだわ。だけんど俺んとこはほんもんの苦汁だぞ」。

次に型箱に流し込み、重石をして20~30分。

水槽へあけ固くなったら切り分ける。

「10℃以下の水でしっかり冷まさんと腐敗のもと。豆腐は生きとるで」。

写真は参考

一斗缶1つに28丁。

それを3箱自転車の荷台に積み込み、上から木箱を被せて出発だ。

「昔はよう売れたで、リヤカーを自転車の横に付けとった」。

正光さんは作業場の竈を見つめた。

昭和30年、空襲で焼け出された町内一行は、現在地(熱田区)へと移転。

「結局、笹島の貨物駅に引っ掛かるもんで、ここが代替地だって。そんだで町内のお宮さん持って、みんなして移住だわさ」。

奇(く)しくもまた新たな出発となった。

「初めの頃は曳き売りしても、顔がにゃあで1日に1丁だて。まあ、たあけらしいでかん」。

顔が出来るまでに、10年を費やしたとか。

昭和39年、尾西市出身の久子さんと結ばれ、三人の男子に恵まれた。

「豆腐はよ、箸で挟めなかん。今の豆腐は、蒸気で火傷させとるだけ。俺とこみてゃあに、釜と炎でちゃんと炊いとんのは、もう愛知県内どっこもあれへん。豆腐の秘訣は煮方と固め方だわ」。

写真は参考

林家の味噌汁は今でも豆腐一丁。

正光さんが半世紀をかけた、渾身(こんしん)の木綿豆腐からは、薄れ行く昭和の名残と味がする。

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「遅ればせながら、今年のわが家のHarvest festival!」

まだ実が真っ赤に色付かないままの、小さなものもありましたが、そろそろ刈り入れかと、収穫することにいたしました。

これがわが家のベランダ菜園で収穫できた、「天突き南蛮」です。

今夜中に玄関の正月飾りの一つとして加え、魔よけの役目を担ってもらい、年が明けて飾り収めを終えたら、ペペロンチーノになんぞ活躍していただこうと思っています。

ちなみにこちらが、昨晩のフキノトウの天婦羅です!

ごっつぉ様でした!!!

今年一年、何とか何とか生き延びることが出来ました。皆様からの心温まるコメントの数々に、大変勇気をいただけたことに、心より感謝申し上げます。

そしてこのブログをご訪問して下さる皆々様にとって、来年が一際良い年となりますよう、心より祈っております。

どうぞ皆様、良い年をお迎えください!!!

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「今朝郡上から、早くも大好物のアレが届きましたぁ!今夜は天婦羅で一杯だぁ!」

まだパジャマ姿のままコーヒーをゆっくりと啜っていると、「ピンポーン」。

郵便局のゆうパックが届いたようです。

えっ、こんな朝っぱらから?と訝しげに段ボール箱を開けて見てビックリ!

予期せぬ早春の兆しの便りじゃないですか!

ジャジャーン!!!

大好物のフキノトウじゃないですか!

こりゃもう堪りません!

今夜は天婦羅にして、新潟新発田の辛口の日本酒で一献と洒落込みたいものです!

ありがたや、ありがたや!

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