「天職一芸~あの日のPoem 316」

今日の「天職人」は、岐阜市加納八幡町の「茶店の団子職人」。(平成21年4月7日毎日新聞掲載)

家族総出で川堤(かわづつみ) 花見の宴大賑わい        そこもかしこも赤ら顔 湯呑み叩いて座敷唄           花見弁当食べ飽きて 兄と堤で蓬取り              母が案じてお迎えに 花見団子を振りながら

岐阜市加納八幡町の「だんごや」、四代目団子職人の森島豊美(とよみ)さんを訪ねた。

幕末の中山道を彩った、あの皇女和宮の輿入れ行列は、延べ50㎞にも及んだとか。

道中和宮は、加納宿本陣に宿泊し、中仙道を江戸へと下った。

その宿場外れに、江戸末期から続く茶店の団子屋がある。

「今も駅名にも茶所(ちゃじょ)という名があるくらい、茶店がよおけあったそうやわ。昔は、団子から餅菓子、天麩羅や焼き芋も出しとったらしい」。その名も「だんごや」の主、豊美さんは、店先で団子を焼く妻を盗み見た。

「十年前までは、テーブルも置いたったんやて。でも暇持て余しとるお婆さんなんかやと、団子一本で話しが長なるでかんわ」。夫婦は顔を見合わせ笑った。

豊美さんは昭和24(1949)年、次男として誕生。

高校を出ると直ぐ、他所の和菓子屋で修業に。

それから4年、職人としてこれからという矢先。

「父がもう歳やで帰って来いと。団子屋は、1日中立ち仕事で体力がいるもんやで」。

以来、日本の四季を彩る歳時記に合わせ、季節感漂う団子や餅で庶民の小腹を満たし続けた。

昭和54年、同県羽島市出身の恵子さんを妻に迎えた。

「昔からみたらしだんごは甘辛いもんやと思っとって、ここのを口にしたらお醤油味だけやもん。最初は『不味い!』って思ったけど、1本食べたらもう病み付き」 。

今が旬の花見だんごは、米粉をぬるま湯で手練りすることに始まる。

写真は参考

「それをボチ(生地の塊)にして、1時間蒸してから搗くんやて」。

次にボチ1に対し2の割合で砂糖を混ぜ、生地が熱いうちに手で練り込む。

「冷えると生地が締まってまうで。でも熱いで手なんて真っ赤やて」。

15分ほど手練りし、ボチを大きめに切り分け、再び40分ほど蒸し、塩を振りながら搗く。

次にボチを3等分にし、まず白を搗き、食紅を入れて赤を搗く。

最後に蓬を入れて緑を搗き、団子状に丸め3色を串に刺せば、昔の味と寸分違(たが)わぬ花見だんごが出来上がる。

「ここのはみんな美味しいよ。それに安全やし。保存料も添加物も入っとれせんで。何と言っても粉がええでねぇ。ほんだで噛んどると、後から甘味が出てくるんやて。奥さん、わし、おだんご7本包んで。それとあんころ餅と草餅も3個ずつ」。

客の老婆は団子自慢をひとしきり。

そう言われれば、確かに次々に訪れる客は、何はともあれまずみたらしだんごを所望する。

中には離乳食にと買い求める客もあるほど。

「団子作って37年。でも満足行く出来は、月に3~4回やわ。毎日同じ粉と水の量やに、季節で異なるんやで。団子も生きもんやでなぁ」。

五代目はと問うた。

「子宝を授からなんだでなぁ」。夫はこっそり妻を見やった。

「でも近所の子が『ぼくが後継ぐ』って」。妻が傍らで笑い飛ばした。

この世に角張った団子は無い。

どんな時でも団子のように、人の世もまあるく、ただ、まあるくありたいものだ。

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「天職一芸~あの日のPoem 315」

今日の「天職人」は、名古屋市中区大須の「芝居小屋主」。(平成21年3月31日毎日新聞掲載)

母の密かな愉しみは 年に一度の旅芝居             贔屓(ひいき)役者の幟旗(のぼりばた) 小屋にはためきゃ気も漫(そぞ)ろ                          朝も早よから鏡台で 鼻歌混じり紅を注す            まるでお盆と正月が 一緒のような忙(せわ)しなさ

名古屋市中区大須、七ツ寺共同スタジオ小屋主の二村利之さんを訪ねた。

足の踏み場も無い小さな古本屋。

主人はさっきから、うら若い女性客と話し込んでいる。

女性の方は劇団員風で、来年の公演日程を相談しているようだ。

「お盆だったら、他の借り手もどうせないから、ちょっとは安くしたげられるよ」。

何と商売っ気のないことか。

公的な劇場では、いくら借り手がない日とはいえそうは行くまい。

「この猫飛横丁(ねことびよこちょう)って古本屋が、小屋の連絡事務所みたいなものでね」。利之さんは、人懐こそうに笑顔を向けた。

利之さんは昭和20(1945)年5月、空襲警報が連日鳴り響く中で産声を上げた。

高校生になると新劇、そして大学へ進むとアングラ芝居(アンダーグラウンド演劇)の黒テントや唐十郎の紅(あか)テントなど、前衛的な演劇に傾倒して行った。

その後大学を出ると、24歳で名古屋タイムズ社の文化部記者に。

「本当は芸能記者志望。でも、そんな都合のいい仕事ばかりじゃなくってねぇ。当時の文化部は家庭欄の担当で、レジャーから趣味までとにかく幅広く、自分で選り好みなんて出来なくって。他の記者と違って、あたしは器用にあれこれと取材がこなせなくってね」。

そんな頃仕事の片手間に、テント劇団の公演準備を裏方として手伝った。

「野外会場を借りる手配をしたり。新聞社の名刺を出すと、相手も信用してすんなり貸してくれてねぇ。でもそれが会社にバレちゃって」。

26歳でそそくさと退社。

「東京なんかじゃ小劇場運動が興って、小さなスタジオが出来てね。じゃあ、そんなスタジオ作るかって」。

さっそくトラックの大型免許を取得し、資金稼ぎに奔走した。

「でもそんな簡単に資金なんて出来るもんじゃない」。

しかし利之さんの前に、良き理解者が現れた。

「今のスタジオの大家さんが、一代で財を築いた方で『権利金も敷金もええわ。貸したげる』って」 昭和47年、ついに大須の下町に前衛文化の拠点が華開いた。

「芝居を見ながら飲み食いが出来て、劇団員の寝泊りも出来る小屋。それが七ツ寺共同スタジオ。芝居が跳ねて役者と共に酒を酌み交わすのが唯一の楽しみだった」。

やがて、つかこうへい、東京ボードビルショーなども来演した。

昭和56年、スタジオに出入りしていた文学少女のむつ子さんと結ばれ、一女を授かった。

「若い役者たちから母親のように慕われてねぇ。時には厳しく評論したり、とにかく面倒見がよくって」。

しかし5年前、脳溢血に倒れ還らぬ人となった。

利之さんは亡き妻を偲びながら、今も小屋を守り続ける。

明日の役者や演出家たちは、自らの才能を信じ、台詞の一語一句に己(おの)が魂を吹き込む。

利之さんの37年は、そんな役者を我が子のようにそっと見つめ続けることだった。

誰よりも芝居に恋した、男のけじめとして。

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「天職一芸~あの日のPoem 314」

今日の「天職人」は、三重県南伊勢町贄浦(にえうら)の「からすみ職人」。(平成21年3月24日毎日新聞掲載)

隣の家のおばちゃんが 里の土産とカラスミを         「こんなに美味いものはない」 そういいながら差し出した    母の居ぬ間に妹と ちょっと端っこ齧(かじ)ったろ      「兄ちゃんなんや磯臭い」 「塩味効いたういろやろ」

三重県南伊勢町贄浦、からすみ加工販売のやまきち。三代目からすみ職人の中村和人さんを訪ねた。

「秋口になると昔はボラ網漁ゆうてな、山の上から見張りしとってさ。ボラの群れが来ると、港に向かって合図すんやさ。そうすると漁師らが足の速いミトブネで群れを追い駆け、石ぶっつけてボラ網へ追い込むんさ」。和人さんは、妻の淹れたコーヒーを啜った。

「ボラで一番金んなんのはからすみやけど、身も美味いんやに。春は刺身にチラシ寿司、それに塩焼きや唐揚げ。中でも一番はシャブシャブ。ところが今しは昔と違(ちご)て、身が市場で売れやん。四日市公害が問題んなって以来、臭いゆうてな」。

和人さんは昭和32(1957)年、3人兄弟の長男として誕生。

大学を出ると名古屋のスーパーマーケットに就職。

青果部門を担当した。

ところが昭和58年、母がクモ膜下出血に倒れ急ぎ帰郷。

そのまま家業に従事することに。

母の病を案じた帰郷とは裏腹に、密かな想いも認(したた)めていた。

その年、学生時代からの憧れだった、美人で3つ姉さんのひで子さんに恋心を打ち明け、見事本懐を遂げ結ばれた。

その後、双子の男子とさらに弟が誕生。

「ぼくが1800gで次男が1300g。大きなってお父さんとお母さんに聞いたら『お前らアオリ烏賊みたいにしとったでぇ』だって」。

双子の兄が大笑い。

何とも明るい一家である。

作業場はまるで家族の居間のようだ。

からすみ作りは、10月初旬から12月初めが勝負。

「ボラが10月頭から11月の初旬にかけて上って来るでな」。

昔は浜でもボラが大量に上がった。

「昔のことやで、雄雌まとめて船ごと全部で10㌧ほど買うたるんやさ。せやで当りも外れもごちゃ混ぜ。酷いと雌が3割に雄が7割とかで、勘定合わせんわさ」。

今は雌だけ選別されたものを買い入れる。

「腹触ってみるとようわかるに。ちょっと押しただけで精子が出るのが雄やで。でも中にはオカマみたいなんもおるんやさ」。

高級珍味からすみは、まずボラの腹を割くことに始まる。

「この人と違てな、義父は腹割くのがへたくそやってな。せやでいっつも卵まで傷だらけ。しかたないで義母が、傷を絹糸でよう縫うとったもんやに」。

ひで子さんがそう言いながら笑った。

「左手の人差し指の腹に右手で出刃の背を添え、指を先に押し出しながらスーッと割くのんがこつやで」。

次に血を抜き、塩漬けにして常温で2~3日保存。

続いて水に浸けては引き揚げ、2~3日かけて塩出しを繰り返す。

「塩が効き過ぎると固となるで、芯を残さんようにな」。

そして仕上げは板の上に並べ、10日ほどたっぷりと天日干し。

「同じ卵でも、別嬪さんもおりゃあ、18の生娘もお婆もおるで。形も味も全部違うんやさ」。

職人技と自然が育てたからすみは、艶やかな橙色(だいだいいろ)に色付き輝く。

贄浦に浮かぶ茜雲のように。

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「コロナで規模は縮小されても、三寺まいりは祈りの静かな祭典!」

来たる1月15日は、飛騨市古川町の「三寺まいり」です。

しかし今年は、コロナの影響もあり規模縮小とのことです。

でも地元飛騨古川の方々にとってこの「三寺まいり」は、何があっても無くとも、200年以上も前から続く独特の伝統風習。

親鸞聖人のご恩を偲び、町内の3つの寺、円光寺・真宗寺・本光寺を詣でるならわしであり、掛け替えのない静かな雪闇に、そっと和蝋燭を灯し手を合わせ祈る祭典です。

その昔野麦峠を越え、信州へ糸引きの出稼ぎに行った年頃の娘たちが、この日は着飾り瀬戸川の川べりを歩き、三つの寺に手を合わせ良縁を期したそうです。

それがいつしか「嫁を見立ての三寺まいり…」とまで、飛騨古川の小唄にも唄われるようになり、縁結びが叶うおまいりとして全国に知られていったものです。

ぼくは仮初めにも、未だ飛騨市さんから「観光大使を辞退願いたい」とのお言葉もありませんので、厚かましくも飛騨市さんに何のご恩返しも出来ないまま、「飛騨市観光大使」を名乗らせていただいております。

大恩ある飛騨市の皆々様に申し訳ない限りです。

せめて今ぼくに出来ることは、ぼくの唄の「三寺まいり」をブログにアップさせていただくくらいです。

でもいつか、いつの日か、飛騨市の皆様のご恩に報いるつもりです。

「三寺まいり」

詩・曲・歌/オカダ ミノル

瀬戸川に 明りが燈る 雪闇浮かぶ 白壁土蔵

 千の和灯り 千の恋 千の祈り 白い雪

飛騨古川 三寺まいり 娘御たちの 願い叶えや

瀬戸川に 灯篭流し お七夜(しちや)様に 掌を合わす

 千の和灯り 千の恋  千の祈り 白い雪

寒の古川 三寺まいり 娘御たちに 縁紡げや

 嫁を見立ての 寺詣り 小唄も囃す 白い息

飛騨古川 三寺まいり 娘御たちの 願い届けや

どうかどうかコロナを一日も早く乗り越え、再び皆様と共に飛騨古川の「三寺まいり」に詣でることができますように!

今年も遠くからではありますが、飛騨古川の地に向かって手を合わせたいと思います。

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「天職一芸~あの日のPoem 313」

今日の「天職人」は、岐阜県下呂市金山町の「福引せんべい職人」。(平成21年3月17日毎日新聞掲載)

紅白あとの除夜の鐘 年に一度の夜更かしも           この日ばかりは咎(とが)め無し お炬(こた)で家族水入らず  御節お雑煮初詣で 参道脇の駄菓子屋で             福引せんべいねだっては どれどれどれにしましょうか

岐阜県下呂市金山町、創業昭和6(1931)年の福引せんべい「三盛(みつもり)屋」。三代目主の土屋清春さんを訪ねた。

写真は参考

プニュ~ッ、プニュ~ッ。

妙な音のする作業場を覗き込むと、時間が昭和のまま止まっていた。

タイル貼りの焼き台を挟むように、夫婦が寡黙にせんべいを焼き続けている。

年季の入った焼き台は、六面柱が横に寝た状態で設置され、六面の鉄板を手動で回わしながら順に焼き上げるよう工夫されている。

「だいたい六面がグルグルッと1回りすると、せんべいが順に焼き上がるようになっとるんや」。

そう言いながら男は、1番上に回ってきた鉄板の上蓋を跳ね上げ、生地の入った四角い受桶(うけおけ)ごと、レールを這わせ鉄板の上へと導く。

桶の底に開いた2つの穴から、鉄板の上へと生地を器用に流し込む。

そして跳ね上げた鉄板の上蓋で生地を挟んで閉め、せんべいがプニュ~ッと鳴き声を発すれば、六角柱の焼き台を手前に回す。

すると対面の妻が1回りした鉄板から、焼き上がったせんべいを取り出す。

見事に卒の無い作業手順だ。

そしてせんべいがまだ冷めやらぬうちに、生地の四辺を重ねあわせるように緩やかに折り曲げ、こんもりとした三角形へと形成する。

写真は参考

「この中にお御籤(みくじ)や玩具を入れ、封をするように包み込んみ、後は自然に乾燥させたら完成やわ」。

福引せんべいは、郡上の正月に欠かせぬもので、縁起菓子として古くより親しまれ続けた。

三角形の三隅は、大河ドラマではないが「天・地・人」と定められ、自然の恵みに感謝し家族の幸せを祈るものだとか。

清春さんはこの家の長男として、東京五輪に日本中が沸いた昭和39年に誕生。

高校を出ると名古屋の専門学校へ。

そして昭和59年、名古屋の警備会社にエンジニアとして入社。

それから2年、恵子さんと名古屋に所帯を構え、二男一女をもうけた。

「26歳の時やったわ。木工屋の親戚の爺さんから『お前が社長やぞ、継いどくれ』って誘われて。それで地元に帰って工場まで建てて。木工なんて免許もなんもいれへんもんで」。

ところが不況の煽りで元請けが倒産。

ついに見切りを付け家業へ。

「小さい頃から祖父や父の姿を見とったで、後は見よう見真似やわ」。

福引せんべいの命は、生地と焼き。

祖父の代から使われ続ける木桶で、小麦粉と砂糖に重曹を混ぜ水溶きする。

それを柄杓(ひしゃく)で汲み上げ、笊(ざる)でダマを漉(こ)し受桶へ。

後は熟練の勘だけが頼り。

「六面ある鉄板にも、みんな癖があるんやて。だでそれぞれに番号付けといて、癖見て焼かんとな」。

どの福引せんべいも一見同じような出来栄。

だがどれ一つとっても、焼き上がりの顔も違えば、こんもり膨らんだ三角形の形も異なる。

写真は参考

機械製造ではない手作りの証だ。

職人はただただ幸あれと願いを込め、今日も手捻りで福を包み込む。

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「天職一芸~あの日のPoem 312」

今日の「天職人」は、三重県志摩市的矢の「的矢牡蠣職人」。(平成21年3月10日毎日新聞掲載)

牡蠣殻割れば故里の 磯の香りが立ち込める           母から届く小包は 凍てつく冬のお御馳走(ごっつお)      そのままジュルリ吸い込めば 浜の懐かし味がする        母なる海が育んだ 伊勢御饌(みけ)つ国的矢牡蠣

三重県志摩市的矢で大正8(1919)年創業の、清浄的矢牡蛎「佐藤養殖場」。四代目の佐藤文彦さんを訪ねた。

幾重にも突き出た岬が、的矢湾をやさしく抱(いだ)く。

凪いだ海に200基もの筏がたゆたい、海鳥たちがゆるりと舞い飛ぶ。

「何とも言えやん、ええ景色ですやろ。爺さんはこの海を誰よりも愛し、この海に一生を捧げたようなもんですんさ」。文彦さんは、眩い陽射しを照り返す海を眺めた。

文彦さんは昭和44(1969)年、東京都新宿区で長男として誕生。

大学を出ると生協へ入社。

トラック一杯に生鮮食料品を積み込み、毎日販売に明け暮れた。

「『就職するなら、一生勤めるつもりで探して来い』って言われ、そのつもりでおったのに。3年したら、元々体の弱い父が『跡継いでくれ』って」。

平成7年、祖父が生涯を捧げた的矢の海へ。

佐藤養殖場の歴史は、「垂下式牡蛎養殖法」を開発し、昭和28年に紫外線で海水を殺菌する浄化法で特許を取得した、祖父忠勇(ただお/故人)の人生そのものでもあった。

忠勇は、大学の水産科で養殖とプランクトンを学び、やがて養殖真珠に取り組まんと的矢へ。

しかし養殖真珠の壁は厚く、挫折を繰り返した。

一人また一人と、養殖真珠を当てこすった山師が去る。

しかし忠勇はただ一人、暮れなずむ的矢の海を眺め続けた。

その時、朽ち果てた真珠筏に目が奪われた。

そこには何と牡蠣の稚貝が付着。

この日から、的矢牡蠣の歴史は刻まれ始めた。

的矢牡蠣の養殖は、宮城県松島から10月末に稚貝を仕入れることに始まる。

「夏に牡蠣が抱卵する頃、種とり言うてなあ、海中にホタテ板(貝殻)を沈めて、稚貝がくっつく習性を利用すんやさ。だいたい大潮から大潮までの2週間ほどかけて。小指の爪ほどに成長した種牡蠣を仕入れて、的矢の筏に吊り込むんさ」。

翌年秋口には、ホタテ板1枚に20個ほど牡蠣が成長。

それを一旦引き上げ、選り分けて牡蠣籠に移し、再び海中へと沈める。

そのまま1~2ヶ月もすれば、色艶もよく大きく育ったプリプリの的矢牡蠣が誕生する。

「毎年10月から出荷用の牡蠣を水揚げして、爺さんの特許浄化法で、一昼夜かけて紫外線で滅菌した海水シャワーを浴びせ続けるんやさ」。

出荷は3月末まで続く。

「昔は1年に300万個も売れたけど、今はその半分やなあ」。

文彦さんの「清浄的矢牡蛎」は、鮮魚市場には出回らない。

「生牡蠣は鮮度が命やで、爺さんの代から、相対の直販専門やわ。有名ホテルや料亭、あとは全国各地の、先代からの個人のお客様」 。

文彦さんは平成18年に地元の昌美さんと結ばれ、湾を見渡せる場所に新居を構えた。

「的矢の海は、爺さんの研究通りプランクトンが豊かやで、日本一の牡蠣を育ててくれるんやさ」 。

文彦さんの伊勢訛りも、今ではすっかり板に付いたようだ。

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「天職一芸~あの日のPoem 311」

今日の「天職人」は、岐阜県下呂市萩原町の「凍み豆腐職人」。(平成21年3月3日毎日新聞掲載)

夜の帳(とばり)が降りる頃 庭に簾(す)を張り姉ちゃんと   豆腐並べを競い合う 寒の砌(みぎり)の益田(ました)風    四方(よも)の山間(やまあい)萩原に 朝陽がそっと顔を出しゃ カチンコチンの凍み豆腐 かじかむ指で掻き集め

岐阜県下呂市萩原町で、創業明治23(1890)年の戸谷(とだに)豆腐店。五代目の戸谷成樹(しげき)さんを訪ねた。

「『豆腐三丁と揚げ二つあげるで、ご飯食べに行こう』。これが最初に嫁をデートに誘った、口説き文句やったかな」。成樹さんは、ちょっぴり照れ臭げだ。

取引先の旅館でひろみさんを見初め、自慢の豆腐を餌に猛攻撃。

めでたく平成7年に結ばれ、一男一女を授かった。

「嫁のお母さんが大のこも豆腐好きで『こんないい縁談は無い』って」。

写真は参考

僅かばかりの豆腐の原価で、一生もんの幸せを手にした果報者だ。

成樹さんは昭和32(1957)年に長男として誕生。

大学を出ると横浜市の住宅会社で営業として勤務した。

「先代が難病を患い、入退院を繰り返しとったもんやで」。

26歳の年に帰郷し家業に従事した。

「最初は悩んだわ。住宅会社じゃ月に4~5000万円も売上たのに、豆腐屋じゃせいぜい一丁70~80円やで。でもそのうちに、豆腐作りの奥深さに魅せられてったんやわ」。

「凍(し)み豆腐」は、12時間大豆を水に浸す「浸け豆」に始まる。

そして水切りし石臼で磨り潰し、煮釜に移して煮上げる。

「豆腐の出来の良し悪しは、煮上げる温度で決まるんやて。94℃で大豆の青臭さを飛ばし、97℃に達したところで火を落す。それ以上温度を上げると、風味が損なわれるでな」。

次に遠心分離機で豆乳とオカラに分離。

豆乳を固める最低限の天然塩田苦汁(にがり)を加え、櫂(かい)でゆっくりとかき回す。

普通の豆腐より倍の時間をかけて寄せることで、さらに木目細かさが際立つ。

そして30分かけ熟成。

型箱に流し込み1時間押し上げればネタが完成。

一丁を6等分に切り分け、陽が沈むのを待ち、屋上のオニガヤの簾に一枚ずつ並べ、この地特有の益田風に翌朝まで晒す。

そして凍て付き、まっ黄色に変色した凍み豆腐を、沸騰後に火を落とした釜の中へ。

余熱で解凍させ、手で軽く絞れば、生の凍み豆腐が完成する。

「昭和30年代頃までは、藁で縛って吊るし、天日に干したもんやて。でもそれやと、日向(ひなた)臭いし蛋白質が変質するんやわ。だから今では、熱湯で解凍して絞った、生の凍み豆腐しか出しとらんのやて」。

凍み豆腐作りの季節は、1年にわずか厳寒期の50日程度。

「氷が1~2㌢張る、マイナス5℃以下やないと出来ん。だから今年は暖冬で1月末で仕舞いやわ。でも地元の人が心待ちにしとるで、作れる間だけでも作らんと。だから直ぐに売り切れやわ」。

一番旨い食し方は、と問うた。

「5㍉角に切って、味ご飯に入れて炊くんやて。自然に時間かけて凍らせたるで、豆腐もスカスカやなく固めや。だから大豆本来の味がちゃあんと残っとる」 。

冷凍機の大量生産ではない。

待ち人に思いを馳せ、古来の製法にこだわる職人の心意気。

成樹さんの凍み豆腐には、作り手の想いが凍み込んでいる。

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「天職一芸~あの日のPoem 310」

今日の「天職人」は、三重県南伊勢町田曽浦の「伊勢海老仲買人」。(平成21年2月24日毎日新聞掲載)

年始回りに娘連れ 上司にたかるお年玉            「上がって行け」と勧められ 御節をあてに「まあ一献」     さすが御節も三段重 一の重には伊勢海老が           皆で眺めて迷い箸 娘が素手で掴み取る

三重県南伊勢町田曽浦の山金商店、三代目伊勢海老仲買人の山本和博さんを訪ねた。

作業場の生簀には、網に覆われた篭がいくつも沈められている。

中では伊勢海老や蛸が、物静かに蠢(うごめ)き続ける。

「伊勢海老はなあ、上手いこと大角(おおづの)の触覚で、アサリの貝殻や魚の骨を口元へ寄せて来て、バリバリ言わせて食べよるんさ。いっぺん食べさせてみよか?可愛いもんですに」。そう言うと、男は生簀から篭を引き揚げた。

和博さんはカワハギを瞬時に捌き、背骨を伊勢海老の篭の中へと落とした。

「こいつらなあ、蛸が怖いんやさ。『海老伏せ』いう漁法があってな。片手に蛸ぶら提げて、伊勢海老を脅しといて、もう一方でタモ構えて追い込むんやさ」。和博さんが伊勢海老の胴を右手で掴み上げると、触覚と6本の両足が空を貪るように動き出す。そして尻尾を丸め油蝉のような声で、ジージーと鳴き出した。

「大角が片一方だけやったり、片側の足が3本連続で折れとったら、傷もんやで値打ちも無く売れやん」。

伊勢海老は志摩半島から相賀(おうか)浦にかける、熊野灘に面した磯伝いに生息する。

「この2匹の胴の固さ比べてみい」。和博さんが2匹の伊勢海老の胴を、片手で掴むように促した。

「こっちの胴が柔らかいですやろ。内代(うちが)わり言うてな、脱皮する前なんやさ。夜のうちに頭と尾の付け根の節から、上手いこと脱ぎ捨てるんですに」。

脱皮前の伊勢海老は、特に身がプリプリで最高だ。

「こうして1年に何度も脱皮を繰り返し、大きなって行くんやで。でも脱皮して間あないと、殻がフニャフニャで他のもんに襲われるんやさ」。

伊勢海老漁は10月から4月。

4月を過ぎると産卵期を迎える。

和博さんは毎朝5時から、日に何度も行われる競りに立ち会い、伊勢海老の色と大きさを熟練の眼(まなこ)で見極める。

山金商店の創業は昭和の初め。

「祖母が行商から始めて、父が店を構えたんやさ」。

和博さんは昭和22(1947)年、3人兄妹の長男として誕生。

東京五輪の翌年、高校を出ると体の弱い母を庇い家業に従事。

それまでの活魚中心から、作業場に生簀の設備を備え、本格的に高級食材である伊勢海老や鮑の、取り扱いに乗り出した。

「五ヶ所湾の田曽浦で水揚げされる伊勢海老は、伊豆や千葉のもんと茹で上がりのプリプリ感が違いますんさ」。

さすがに伊勢の名が冠された御饌(みけ)つ国の海老だ。

昭和46年、地元の青年団で知り合った由佳子さんと結ばれ、二女を授かった。

跡取りは問うと「娘が小さい時から、毎晩子守唄代わりに、念仏のように『後継げよ』と唱えとったけどあかんわ。それに皆が寝とるうちに起き出さんなん、きっつい仕事をさしともないし」と。

熊野灘の翁、伊勢海老と共に、43年を行き抜く男は、ちょっぴり寂しげにつぶやいた。

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「天職一芸~あの日のPoem 309」

今日の「天職人」は、岐阜県羽島市竹鼻町の「蓮根蒲焼職人」。(平成21年2月17日毎日新聞掲載)

夏の盛りは沼一面 お盆のような葉が覆う            朝陽にポンッと花咲かせ 夕陽に閉じる蓮の花          腕白小僧泥だらけ パンツ一丁で泥鰌(どじょう)追い      種が宿って立ち枯れりゃ 蓮根掘って得意顔

岐阜県羽島市竹鼻町、蓮根料理の店「竹扇(ちくせん)」の馬場文親(ふみちか)さんを訪ねた。

「2年前やわ。弟子が暖簾分けで店を開いたもんやで、家の店2週間閉めて、皆で手伝いに行きました。20年勤め上げ、助けてもらったお礼に」。

トヨタショックに震撼する昨今。

世界有数の優良企業ですら、社の存亡を優先し、形振り構わず弱者を切り捨てる末世。

それに引き換え、この男の生き様はどうだ。

暖簾分けで店を休業し、それまでの弟子の献身に報いた、その潔さたるや。

これぞまさしく、激動の昭和を支えた労使像ではないか。

白衣に身を包み、わずかに背を丸める謙虚な男が、一層大きく見えた。

文親さんは昭和19(1944)年に次男として誕生。

「私が母のお腹に出来た途端に父は召集され、昭和20年1月にルソン島で戦死したんです。だで一度も抱いてもらってもなきゃ、顔すら知りません。でも文親ゆう名は、父が戦地で名付けたそうです」。

父は眠れぬ戦地で、夜毎未だ見ぬ我が子に思いを馳せた。

そして男女どちらが産まれても困らぬよう、それぞれの名を手紙に認(したた)めたと言う。

戦後は育ち盛りの男子2人を抱え、祖父母と母が野良仕事で支えた。

「ここらは沼地が多いもんやで、昔は家でも蓮根作ってましたわ」。

地元の商業高校を出ると、航空機部品製造会社の営業職に就いた。

「昔から30歳前後には、自分で商売やりたいと思っとったんやて」。

昭和43年に同級生の妹、修子さんと結ばれ、一男一女を授かった。

世は高度経済成長の真っ只中。

仕事に子育てと、充実した日々が続いた。

33歳になった昭和52年。

突然、アメリカへの赴任話しが持ち上がった。

「アメリカまで行って、家族がバラバラに暮らすのも」。

文親さんは悩み抜いた挙句、ついに昔の夢であった自営の道を選択することに。

スポーツ用品店やカラオケスナックが候補に挙がった。

しかし「母が、『夜の商売やと、昼間はどうすんや』って反対するもんやで」。

文親さんは知り合いの和食店を頼り、無給で半年間の修業を始めた。

「とにかく店出すことが前提やったで、修業しながら開店準備やわ」。

翌年ついに、現店舗を開店。

それから16年ほどが過ぎた平成6年。

羽島市から地元特産品を使った料理開発の話しが持ちかけられた。

「もう特産と言うたら蓮根やで、何店舗かが寄り合って試行錯誤して」。

そしてついに蓮根蒲焼丼が誕生。

まず蓮根を摩り下ろし、繋ぎに上新粉を入れ、渋み消しに砂糖を足して練り上げ、焼き海苔の上に厚さ5㍉程に敷き詰め油で揚げ、あっさり目のタレを塗った逸品だ。

蓮根のモッチリ感は、鰻の柔肌そのもの。

「蓮根汁を綿棒で鼻の内側に塗ったら、花粉症もイチコロやて」。

それにビタミンCは蜜柑の1.6倍とか。

「先人が植えた蓮根を、次の代に引き継ぐのが務め」。

それを信条に、愛弟子へと暖簾を分け、料理を伝授する。

「いつ私が引退してもいいようにな」。

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「天職一芸~あの日のPoem 308」

今日の「天職人」は、津市一身田の「伊勢木綿織布職人」。(平成21年2月10日毎日新聞掲載)

終業式を前にして 雑巾持参大掃除               母が夜鍋で縫い上げた 雑巾広げ大慌て             絣(かすり)のモンペ伊勢木綿 ぼくだけ皆の笑い者       母に文句をぶつけても 「丈夫でどこが悪いか」と

津市一身田、江戸時代中期創業の臼井織布(しょくふ)。五代目主の臼井成夫(なるお)さんを訪ねた。

昭和半ばの頃のぼくらは、日が暮れるまで草野球に興じた。

町内放送のトランペットスピーカーから、歪(ひず)んだ音色の「夕焼け小焼け」が聞こえると、腕白どもは我先にと家路を競い合う。

するとどの家の前でも、色褪せた割烹着にモンペ姿、下駄履きの母ちゃんたちが、破れ団扇で炭火を熾していたものだ。

「モンペにもその地方その地方で、織り方がことなるんやさ。寒い地方は風を通し難いにように、糸と糸をきっちり詰めて織らんならんし、暑い地方では逆に織りを粗くせんといかんのやさ」。成夫さんは、年代物の織機が居並ぶ工場内へと導いた。

「最初は紺屋(こうや)でしたんさ。それで明治に入ってから、農家に糸を預けて織ってもらう出機(でばた)を始めて。その後家に手織り機を置いて、近所の織り手に、来てもらうようになったんですんさ。当時は朝の5時から夜の10時頃まで、横糸を通す人と織る人の2人1組で、1日2反の伊勢木綿を織り上げとったらしい」。

明治20(1887)年には、今なお現役で活躍する豊田織機が導入された。

成夫さんは昭和28(1953)年に3人兄弟の長男として誕生。

大学を出ると、証券会社のシステムエンジニアとして勤務。

「ちょうど30歳になった年に、帰って来いって言うもんやで。でも父はとうに、繊維産業を見限っとって、『家の仕事はせんでもええ。電気関係の下請けをしろ』って」。

その後、平成元年に妻を得、二男一女を授かった。

しかし42歳になった平成7年、円高の影響をもろに受ける仕事に見切りを付け、ついに家業へ。

「織物でもしよかってな感じで」。

しかし日本の織物産業も年々衰退化の一途。

「平成12年には、とうとう日本橋や京都の問屋まで、夜逃げする始末やん」。

昭和30年代から始まった洋装化の波は、伝統的な日本の織物に打撃を与え続けた。

「木綿は安物やで、昔から女性が初めて身に付ける物やった。そうして着物に慣れ親しんでったんやけど、今は成人式でいきなり振袖着て帯で締め上げられたら、誰かて着心地もようない。でも最近、豹柄のミニの浴衣が出て、えらい都会で若い女性に人気なんさ。それで若い娘(こ)らも、実際に浴衣着てみると、肌触りも着心地もいいって」。

「家でも伊勢木綿の着物を、仕立て上がり3万円ポッキリで売り出したら『ちょっと一桁、額が少ないんちゃう?』って言われてもうて」。

だけどたかが木綿。

「高(たこ)してはならん」。

成夫さんはそうつぶやいて、木綿の糸を差し出した。

「肌触りが普通の木綿糸とぜんぜんちゃいますやろ。家のは糸自体が柔らかく、おまけに縒(よ)りが甘い。これは、あの旧式の豊田織機じゃないと織れやんのさ」。

新製品万能と喧伝(けんでん)される呪縛。

それを解き放つ呪文は、己が身の丈サイズの生き方と、心の在り方次第。

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